10 続・家の幽霊

マッサージの客として現れたAさんに『家の幽霊』に関する話を聞いてから、その母の友達であるマッサージ師の女性…彼女をBさんとする。Bさんは奇妙なものを見始めた。
この話をする前に『夢の地図』について話をしておこうと思う。
夢の地図というのは夢の中での建物やらの配置であって、現実の世界とは似てるけれども異なるものである。どういう原理でそうなるのかは専門家ではないのでわからない。
例えば、夢の中では割と豪華な家に住んでいたり、もう何十年も前に潰れている映画館が夢の中ではいまだに営業していたり、たぶん、こうあるべきだ、と考えている事が夢の世界での地図になっているのだと思っている。
Bさんは生まれつき目が悪く、二十歳になる頃には殆ど見えなくなったそうだ。その彼女が見た夢には、まだ目が見えていた頃の街や家が登場している。彼女は生まれは上関の萩というところで、瀬戸内海の綺麗な海が田んぼから見渡せる、そういう場所だった。
そして時々、その頃の、つまり彼女が子供の頃の思い出が夢の中にも登場していたのだが、つい最近、その夢の中に「ここはどこだろう?」という家が登場し始めたのだ。それは竹薮の中に常にあって、一見すると廃墟のようにも見える。ただ、夢というのは不思議なもので、その家が明らかに存在しないものであっても、見たことの無いものであっても、そこにあるのだからそれを正だと考えてしまうのだ。
最初、その家は貯水池の近くにあった。
次に見た夢では、工事中の道路のそばにあった。
(現実の世界では道路は開通しているので、夢の世界は何十年も前という設定である)
その次は自分の住んでいた家の近くを流れる小川、それに掛かる橋の向こう側に。
そう、だんだん家が近づいてくるのだ。
夢であるから受け入れるしかない。ただしそれは夢の中だけの話だ。Bさんは夢の中では納得していたが、目が覚めてからはゾッとしたという。次に家が近づいてきたらBさんの家の隣になっているだろう。また眠ってしまえば夢を見る。誰に話すわけでもなく自分の中でその恐怖と戦っていたそうだ。
そして残暑が残る9月の蒸し暑い夜、Bさんはとうとうその夢を見ることとなった。
夢の中には自分が子供の頃に住んでいた家がある。だが、その隣には竹薮に囲まれた家があった。最初は子供心に「中に入ってみてみたい」と思っていたそうだ。よく見ればそれは廃墟ではなく、人が住んでいるようにも見える。ただ、誰かが居るような気配はない。外出しているのだろうか。
竹薮の中を潜り抜けて家の庭まで来たBさん。ゆっくりと家の中に入っていく。好奇心が優先された。最初のうちだけは。だが奥へと進むうちにそれは恐怖に変わっていった。
何がおかしい。
夢の中でそれが夢だと気付く、そういう経験をBさんは何度か体験していたが、まさにそれと同じ状況になったのだ。そう、これは夢だった。
この家は知らない家なんかじゃない。あのAさんが話した家の幽霊の家。
「くさい…」
夢の中で強烈な臭いで鼻が曲がりそうになる。それは動物園なので漂ってくる野生動物の臭いだ。また、それを糞尿の臭いとも言うのだろう。
それから聞こえたのは叫び声だ。
家の置くから何かとてつもない恐怖が襲ってくる。具体的には何なのかはわからないが、それは確かに恐ろしいものである事だけはわかる。
何か黒い塊が、同じく黒い何かを引きずりながらこちらにすさまじい速さで向かってくるのだ。
Bさんの目の前に現れたのは巨大な熊だった。
ゆっくりと身体を起こして、その熊は自分の身体を大きく見せようとする。それは敵やら獲物やらの前で熊が見せる特徴そのままだった。そして、あまりの巨大さに、天井に頭をぶつけそうになる。
その黒い塊、熊の傍らにあるのは肉の塊だった。それに手や足があったから、それが辛うじて前までは人であったことがわかる。
そして肉の塊はまだ動いていた。生きていたという言い方は違う。死ぬ寸前でも生物は僅かな電気信号で身体を動かすものだ。生きながらえてもなお、腸を熊に食われている、そういう鬼気迫る状況の人間の肉塊がそこにあった。首はへし折られて、舌をだらんと垂らした頭が、ごろんと向きを変えてBさんのほうを向いた。
Bさんが叫び声をあげるのと、熊が吠えるのは同時だった。
無我夢中で逃げ出す。そして、逃げる場所は目と鼻の先の自分の家だ。
なんとなくそこへ逃げれば助かると思ったそうだ。だが、それは誤りだった。熊は今度はBさんの家の中へと侵入していく。何故か肉塊は手放そうとせずに、口に咥えたまま引き摺ってBさんの家の中を徘徊する。周囲が肉塊から出る血によって赤に変わっていく。
「ううッうう〜!」
という呻き声が肉塊から聞こえる。
Bさんは押入れの中に隠れて熊が逃げていく事を願った。
そこでBさんはようやく目が覚めて悪夢から解放された。
目が覚めたのは何故か押入れの中だったという。
Bさんこと『小山内トミ』さんは、これから俺達が廃村やら宮元の事でお世話になる人である。本人曰く「自分はちょっとしか霊感はない」と言われているが、とんでもない。この人ほど頼りになる人はいなかった。今は目は殆ど見えなくなったが、まるでその代わりとして幽霊と思わしきものが見えるようになったという。
そして、俺はその家の幽霊の話を聞き終えてから一つ質問した。
「悪夢はもうみないのか?」と。
小山内さんは瞳孔が開ききった眼を俺に向けて言った。
「押入れに逃げ込んだんよ。そこが助かるとこじゃったわ。あの家で唯一助かった人は押入れでやり過ごしたんよ。助からんかった人は皆、家から走って逃げたんよ」
小山内さんは手探りでお茶を探し当ててから、それをぐいと一飲みすると、
「家から走って逃げたんは、走って逃げた人と同じ運命じゃて」
聞けば猟師のAさんは、もう何年も来ていないそうだ。
だが、Aさんの消息を望んで聞こうとは思わなかったそうだ。