なぜ日本人は社畜化するのか?

ブラック企業という言葉がマスコミやネットの界隈ではちらついております今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。a munkです。
さて、このブラック企業という言葉が台頭してしまったせいで世間的には「社畜」というキーワードが隠れてしまいました。a munkとしてはどうしてもこの動きを止めたいわけで、お久しぶりですが、一筆書こうと思いついたわけです。
と、本題に行く前に、社畜というキーワードが隠れつつあるのは何故か?それについて「日本人独特の習性」というか文化とでも申しましょうか、それについて説明をします。

なぜ社畜という言葉が隠れブラック企業やブラック経営者という言葉が台頭するのか?

これには遡ること第二次世界大戦の時代、国民が戦争に熱狂したあの時代について語らなければなりません。
みなさんは第二次世界大戦において日本が参戦したのは軍部が国民をコントロールしたから、と学校で教わっているかもしれません。そしてその軍部は戦後、GHQマッカーサーにより裁判で死刑となったと、そうマスコミが触れ回っているのを間に受けているかもしれません。
実は違います。
事実はまったくの逆で、国民がマスコミに踊らされて軍部に政権を委ねたのです。天皇のコントロールも国民が行いました。軍部を通して。ですが、ドイツでも同様に、これから戦後復興で国を築き上げていかなければならないという時期にきて、まさか戦争の原因が自分達で、政府も軍部も天皇も、自分達がコントロールしていた…諸悪の権化が自分達だっただなんて広めたくはありません。
だからみんな口を噤んだのです。
「時代がそうさせた。あの時代はどの国も戦争をしていたんだ」
「戦争はよくない(でも本当はそれを起こした人間が、我々がよくないのだ…それは都合が悪いから黙っておこう)」
それはドイツでも同様です。
ヒトラーに全ての責任をなすりつけたわけです。
全ては戦後復興の為に。
GHQもそれを認めました。
では、戦争を推し進めて大本営発表なども行っていた朝日新聞はどうなったか?戦争反対でいつも日本を貶めるような事を言っていますね。時として大戦中にも行っていた事実の捏造もやっています…あぁ、これは朝日だけじゃなくてマスコミの専売特許でした。
ここまでで日本人の特徴が2つ出てきていますね。

  • 都合が悪いことは生贄を決めてそいつのせいにしよう
  • 自分が悪いことをしたら逆のことを言って自分は無関係であることを言いふらしてまわろう

さて。
話を現代に戻しましょうか。
戦争中の話と比べれば小さなことかもしれませんが、デジャヴを感じてしまうような似たような出来事が今、起きています。
無視してはダメですね。
どんなに小さなことでもバタフライ効果で色々な影響を及ぼすものですし、原因となる部分は同じである可能性があります。思考を停止させるのは考えれば考えるほど都合が悪い立場に置かれる人間がいて、そいつらが「くだらないことを考えるな」とふきこんだからです。
ブラック企業社畜の問題です。
みなさんはきっとこう思っているでしょう。
ブラック企業のブラック経営者が奴隷である社畜をコキ使っているんだ。悪いのはあいつらだ。あいつらを懲らしめれば、この日本は平和になるんだ。そうに決まっている…」
そして、あなたはこうも思っている。
「戦争を起こしたのは軍部で国民は悪くない。そして東京裁判で軍部の悪い奴らはみんな処刑された。生意気な事に靖国神社に納められてるんだ。許せない…」
さっきの話を思い出してください。

  • 都合が悪いことはブラック経営者のせいにしよう
  • 自分もブラック企業に加担してたけど被害者を装って無関係であることを言いふらしてまわろう

あれ?
何か間違えているような…いや、間違えてませんね。
なぜa munkが「社畜」にスポットを当てたか?
「逃げ得」しようとする奴等を徹底的に駆逐する為です。
これから、その「逃げ得」しようとする奴等の正体をみなさんにご紹介しましょう。みなさんが徹底的にそいつらを駆逐するのか、温かい目で見守って行くのかはお任せします。
ですが、温かい目で見守れば、次の犠牲者はあなたになります。

ブラック経営者だけでは維持できない、ブラック企業

ワタミの社長は確かにサイコパスです。
異論はありません。
餃子の王将の研修は宗教団体の修行のようです。
異論はありません。確かにあれは異常ですね。
強盗に襲撃されてもすき家は店になんら対策は行なっていません。バイトの命なんて安いものですよね。だってバイトですから。
こんなに酷い企業なら…辞めればいいのでは?
自分だったら身体も心も壊れる前にやめてる!とお思いですか?では、ブラック経営者が辞めようとする人間一人一人に「てめぇ、辞めたらタダじゃすまないぞ」とか行ってまわっているのでしょうか?
そんなわけがありません。
物理的に不可能です。
だから忠実な手下にやらせているんです。
「ここで辞めてもどこの企業も同じ」
「不況だから他に就職できるところなんてない」
「お前のような根性なしはどこへ行ってもすぐに辞める」
手下の社畜はそう言って逃げようとする奴隷を繋ぎとめようとしますよね。そうです。忠実な手下無しに、彼ら彼女らはブラック企業を維持することなど、到底できないのです。
そして、忠実な手下どもは汚れ役をブラック経営者にして、自分達はまた闇から闇へと逃げかくれるだけです。
本当に悪いのは誰ですか?
はたして、ブラック経営者がいなくなったとして、日本は平和になるのでしょうか?

社畜とは無能な人間の最後の逃げ場

まだあなたはこう思っているでしょう。
社畜はブラック経営者のせいで普通の人間だったのに畜生へと変えられてしまった可哀想な人間なのだ。彼らも犠牲者なのだ」
では、わかりやすく言い方を変えましょう。
「イジメは現代社会の歪みが現れただけで、イジメっ子達は悪くないんだ。誰も悪くないんだ。彼らだってその歪みの犠牲者なのだ」
a munkは「No」を叩きつけます。
自分の行為を社会の歪みや会社のせいにするのは、ただの逃げです。弱い人間だからそのようなことを言い出すのです。
そう、弱い人間。
社畜とは、人間になりきれなかった畜生。
唯一、人間様の社会で生きる事が許された、その姿を指すのです。
では、有能な人間はいるのでしょうか?
有能な人間は居ます。
有能な人間をイメージしてください。
脳裏に浮かぶのは仕事をそつなくこなす人間。朝早く出社して、夜は終電まで。土日も出社。家族との時間もひっきりなしに会社から電話がかかってきて対応している、ワーカーホリックでしょう。まさしく身を粉にして働く人間です。
会社にとって無くてはならない存在。
収入も凄まじく、家は豪邸、子供はおぼっちゃま・お嬢様です。
そんな事を考えているあなたの背後から静かに近寄って、バットで頭を木っ端微塵に殴りたくなります。有能な人間はちゃんと社会にでて、まともな会社でまともに仕事をしている人にしか理解できません。
つまり、上記のような妄想を脳内に巡らせたあなたは、テレビの見過ぎです。有能な人間は収入が多いとは限りません。朝早くに出社して夜遅くまで仕事をして、それだけに留まらず土日も出社するわけでは…ありません。
間違った有能・無能の定義が蔓延し、そしてそれを隠れ蓑にしてひっそりと過ごしている無能…それが社畜です。社畜は自分が何者にもなれないことを知っています。空っぽな人間であることを知っています。だからこそ、土日も出社することで「凄さ」を演じているのです。小さな犬ほどよく吠える事に似ています。
そう、いたって、本能的な動物の行動なのです。
日本には『苦労している人は素晴らしい』という神話があります。
これは日本の人口の8割が農民の出であることに由来しています。
農村では農民は学がなく、そんな者を評価するには「頑張っているか」「頑張っていないか」しかモノサシがありませんでした。そして、「頑張っている」状態が苦労している=つらい状態と似ていることから、「つらい状態」であることが頑張っていることであり、素晴らしい人間だと評価されました。
例え知能指数がマイナスの人間だったとしてもです。
今でもそうでしょう。
夏の終わり頃に24時間も掛けて見世物小屋を展示している某テレビ局の放送を涙を流しながら見ている阿呆どももそうです。人を測るモノサシは、その人が辛そうな人生を歩んでいることだけなのです。
でもよくよく考えてみれば、つらそうな人生を歩んでいる…例えばあいりん地区のホームレス全員がスティーブ・ジョブズのようなスマートフォン業界を揺るがす製品を創りだす人間だとは到底思えないはず。つらそうな人生を歩んでいる人間はただつらそうな人生を歩んでいる人間というだけで、素晴らしい人間ではありません。
そういう日本人が昔から持ってて体の中に染み付いている「苦労している人は正しい」神話に溶け込んで「苦労している人を演じる」ことで空っぽな自分を世間に評価して欲しい、そう願って産まれたのが社畜という存在です。
社畜は無能であるがゆえに、有能な人間を妬み、陥れようとしています。
定時で帰宅しようとするものに一声、罵声を浴びせます。
定時で帰宅するなんて『周囲の人間になんて思われるかわからない、怖い』と自分が思っていて、出来もしない行為を、いとも簡単にやってのける『有能な人間』に嫉妬して、罵声を浴びせます。
会社を辞めようとするものに一言、罵声を浴びせます。
自分が会社を辞めると考えるともう二度と他の就職先は見つからない…そうに決まってる。なのにコイツは見つかると踏んでいる…それが許せない。その自信が許せない。自分よりも幸せな奴が許せない。自分よりも『有能な人間』が許せない。
あなたの中の『有能』『無能』の価値観は揺らいでいますか?
揺らいでください。
ここで揺らがないと、あなたも社畜と同じ、不幸な穴の中で彷徨い続けます。

有能とは?無能とは?

社畜を産みだす原因の1つとして、有能と無能の定義が正しく行われていないことがあがります。
では、改めて、『有能』とは何か?
真の有能とは、人類の文明の発展に寄与し続けている人間です。
例えば洗濯機を作った人は有能な人間でしょう。洗濯機作れなかったとしても、つくろうとしていた人間も有能でしょう。洗濯機のようなものがあればいいなぁ…と心に思い浮かべていた人間も、有能な人間です。
洗濯機のない時代、人は河で洗濯板を用いて服を洗っていました。
ふと、ある者が言いました。
「あぁ…面倒くせぇ…」
すると、ある社畜が言いました。
「これも仕事だ!!怠けるな!!」
…。
ふと、ある者が言いました。
「あぁ、面倒くせぇ…便利な道具があればいいのにな」
すると、ある社畜が言いました。
「何をバカな事を言っているんだ!!怠けるな!!!」
…。
ふと、ある者が言いました。
「そうだ。自動的に衣服を洗濯する機械を作ろう!」
すると、ある社畜が言いました。
「自動的に衣服を洗濯するだと?!そんな卑怯な事をするんじゃない!一生懸命働くことこそが大切なんだ。機械に仕事をさせて自分は怠けるなんぞ、社会人として恥ずかしいと思わないのか!!!働け!!」
…。
真の意味で『無能な人間』とは人類の文明の発展を妨げる人間です。
真の意味で『有能な人間』は、限られた時間内でどれだけ自分や他の人間も含めて楽をできるか、『楽をする為の努力』をする人間です。
人は道具を創り、機械を創り、それらに生活に必要な仕事をさせることで生活を楽にしてきました。工場で流れ作業で大量に生産することでコストを下げて、結果的に貧乏人にも物資が行き渡るようになったわけです。
決して、身を粉にして働いたから生活が楽になったわけじゃありません。どんなに身を粉にして洗濯板を用いて河で洗濯をしても、洗濯機にはかなわないのです。

なぜ、無能な人間が産まれるのか?

a munkはこれでも新入社員研修の監督を務めています。
彼ら彼女らにまず第一声を発します。
「無能な人間と有能な人間の差はなにか?」
新入社員は顔を見合わせて考え、そして数名が答えます。
「学校での成績が優れた人間が有能な人間」
…ため息をつきます。
a munkはそう答えたその新人に、問います。
「君の学校の成績はトップだったのか?」
新人は答えます。
「トップではありませんでしたが、ベストを尽くそうと思います」
追い打ちを掛けるように問います。
「君にとってのベストを尽くす状態とは?」
「一生懸命働くことです」
そして、a munkは面接官だった上司に向かって言うのです。
「使えない人間がいるなら無理に雇わなくてもいいんですよ」
真に有能な人間とは『楽をする為の努力を惜しまない』人間。だがしかし、こういう人間にはなれない。ある人は、閉鎖された日本のムラ社会がそうさせると言い、ある人は楽をすること自体が悪だからと言う。
人は優れた文明を創りだす力を持っているのに、心のどこかでこう思う。
「今の優れた文明は、どこかの偉い人が考えたものだ」
「自分には関係ない。自分はそんな文明の甘い蜜を吸うだけだ」
甘い蜜を吸うだけだったが、無能探しが行われて自分が無能であることがバレるのが怖くなった、そして一生懸命頑張っている自分を演じることで『生き残り』を賭けた。それが今の社畜の姿そのものです。
なんということでしょう。
彼らは誤解しているのです。
有能であることがつらい事だと。
もしくは、こう誤解しています。
「何かにのめり込むことがキモチワルイ」
「仕事というのはいやいや残業して休日出勤して『頑張って』働くものだ」
楽しむことも邪道だと。
そう。
いよいよ、核心に迫ってきました。
社畜を産みだす、日本の根本にある、闇です。

社畜とは自己が確立できていない『人間になりきれていない人間』

有能な人間とは人類の文明に寄与している人間と先ほど言いました。
そして、誰もが嫌な仕事は嫌だと思っているし、楽をしたいと思っているとも言いました。社畜でさえも楽をしたいと思っています。が、楽をすることが『悪』だとも思っています。だから楽であることを『楽』だと認識できるのです。
もし誰もが面倒くさい仕事を楽にするために試行錯誤を行っていれば人類の文明はさらに躍進していたでしょう。しかし、そうはさせていません。
人は人生の意味について、時々考えます。
一度きりの人生なのだから好きに生きればいいのに、考えます。
はたして自分は社会にとって必要な人間だっただろうか?はたして自分は何者かになれただろうか?はたして自分は、一族に恥じない人生を歩んでいるだろうか?
それは、本能的なものです。
本能的なもの…つまり、腹がすけば食事をして、可愛い女の子がいればレイプしたいと思う、そういう本能的なものです。え?レイプっていうのは言葉としておかしいんじゃないかって?あえてそのような卑猥な表現を使いました。それぐらいに、他人の目を気にして生きることが本能的で下劣なものだからです。
この『集団欲求』という厄介な本能は、その人間の人生に留まらず、人間社会の発展にすらブレーキを掛けるものです。
社畜がいい例ですね。
自分と異なるもの…例えば「みんなが仕事を頑張っているのに1人、帰ろうとするものを見ているとイライラする」…例えば「みんなが仕事を頑張っているのに1人、帰るのは気が引ける」じつに厄介です。他人と行動、思考を共にしなければ気が済まないのですから。一度きりの人生なのに、この集団欲求のせいで台無しです。
そして、楽をしたいから発明をして楽をする、ことすらも神の与えたクソみたいな本能である集団欲求のせいで邪魔させられるわけです。神は人間を苦しめるために作ったのかと疑いたくもなりますね。
しかし、一方で、その集団欲求のしがらみから抜けだして自由に飛び回っている人間もいます。ほら、夏休みと冬休みに薄い本を買い漁るために東京に集まる彼らもそうですね。欲求に素直ですが、ひと目は気にしていませんね。
彼らは『子供』なんでしょうか?
皆さんは誤解しています。子どもとは欲望に素直な生き物で、大人は欲望をこらえる生き物だと思っています。大人だって欲望をこらえません。だから子供が産まれてくるのです。欲望がなければ人類は滅亡しています。
子供は欲望のコントロールができていないから、子供なのです。
大人は欲望のコントロールができているから、大人なのです。
話を集団欲求に戻しましょう。
周囲の目が気になっている連中は、子供なんです。そうなりませんか?集団欲求という欲望のコントロールができていないのだから。いつかはしなければならない、大人への階段…つまり『周囲の人間の目を気にしない自分になる』という儀式を恐怖心からおざなりにして大きくなってしまったのです。
まだガキなわけです。
本来なら好きなもの同士が結婚するのに、周囲の目を気にして特定の年齢になったら誰とも構わず結婚して好きでもないのに同じ屋根の下で過ごすのもガキだからです。
周囲の目を気にして家に帰りたいのに会社に残って、自分は頑張ってますと偽るのも、それをブラック経営者にいいように利用されるのも、ガキだからです。
発明だなんてたいそうなことは自分のような一般庶民にはできないと、マスコミが与えた『一般庶民』という型にハマることで、自分の幸せすらも他人に決めてもらう、頭の中身が空っぽで代わりはいくらでもいるロボットみたいな人間なのも、ガキだからです。
人間になりきれていないのです。
ガキは人間になりきれてない、まだ獣なのです。
獣は恐怖心と本能だけで行動しますから、飼い主が必要です。
ほら、ブラック経営者がそんな可哀想な獣達の飼い主になってくれるそうですよ。おやまぁ、そんなに嬉しそうに尻尾を振って…。本当に、畜生ですね。

最後に

みなさんは『社畜』というキーワードで、ある特定の企業の、ある特定の人達を指しているんだと勝手に思っていたでしょう。
身近にいますよ。
あなただって社畜の素質はあります。
どうすれば社畜にならないですむか?
ここまで読んでもまだ理解できないのなら、諦めて社畜になりましょう。『しあわせ』だってあなたのような頭の悪い人間の元には行きたがりませんよ。
ここまで読んで理解できた方は、今、この瞬間からはじめましょう。
社畜ではない、畜生ではない、本当の人間の生活を。