15 要人警護

さて、僕が今どこにいるかというと、市内のとても大きなお屋敷にいるんだ。
そこは近くに大学があって、学生寮や学生向けのアパートが所々にあるわけだけど、元々市の中心からかなり離れた所に大学を造っているものだから、周辺の土地は安かったんだろうね、大きな屋敷を造るには十分な土地がそこにあったんだ。だから、一つ違和感があるとすると、屋敷の壁の向かい側には沢山の学生寮があって、通りにはわりと若い人たちが行き来してるという事かな。
僕はそこの西洋と東洋がオリエントしたようなお屋敷の中に、何故かメイド服を着て、乾いた雑巾のような布でウン百万とするだろう花瓶って奴を拭き拭きしちゃったりしてるんだよ。
生まれて初めて着る本物のメイド服というのは身体にフィットして動きやすく作られているんだ。ガーターベルトとストッキングが身体にぴったりとあって背筋も足もピンと伸びるし、この服、何故か胸の部分を強調するようなタイプだから、普通の女性なら自慢したくなるような美乳持ちの僕は実は時折動きにくくなるその乳をやっかいもの扱いしたりしたけども、締め付けが無くなってある意味人はノーブラが本来の姿なんじゃないかと思わせたりもするんだよね。
実はメイド服姿なのは僕だけじゃなくて、他にも何人かメイドさんは居るみたいだ。僕の近くにいるメイドさんはクリさんなんだけどね。この人も僕と同じくスタイルは良いので何を着ても似合う。一つだけ似合わないものがあるとするのなら、彼女がいつも首辺りから尻尾のように垂れ下げているネットワークケーブルだね。あれはどんなシチュエーションでも、どんな服にも似合わない。首からネットワークケーブルが垂れ下がってるなんて100年以上前の玩具じゃないか。まぁ、その話は置いといて。
僕とクリさんが何故このお屋敷に居るのか…。それはほんの数日前にクリさんが経営する(僕はその会社の社員らしい)何でも屋さんに依頼があったからなんだ。
これがとても変なお客さんでね…。

ある日、僕が仕事を終えて(本職はプログラマなんだけどね、クリさんに勝手に何でも屋の社員にされちゃたんだ)ボロアパートに帰った時に、その子供はそこに居たんだ。
女の子で、まだランドセルを担いで集団登校してるぐらいの年齢。ランドセルの代りにストラップが沢山付いている大きなピンク色のリュックを背中にしょっていた。あまり揃っていない細い髪をそのリュックやら自らの額に垂れ下げていて、うつむいていた。
何故かぶーちゃんの部屋の前に座り込んでるんだ。だから僕は嫌な予感はしたんだよ。まさか…ぶーちゃんがロリ要素も持っていたとはいえ、小学生に本気で手を出そうなんて思っているとは…!!本当に友人の一人ならここで警察に連絡したほうがいいんじゃないかとか思うんだろうけどさ、少なくともこのアパートの住民なら警察の2文字の漢字あまり好きじゃないだろうし、僕の身にも危険が及ぶと思うし、そういうわけでどうやって警察に通報しないで事を穏便に済ませるか考えた。
とりあえず話しかけてみようか。
「どうしたの?」
「あ、えと…」
その女の子は新聞だか雑誌だかの切れ端を僕に差し出したんだ。バーコードが印字されてて、それを読み取ってみると、ネットに接続して何でも屋のサイトに繋がったんだ。ってアレ?ぶーちゃん関係ないのか。よかったよかった。僕は最初から信じてたよ!
ん?
なんで、何でも屋のサイトに用事があるのかな、この子供。
「とりあえず、何でも屋のお店はこっちだから」
僕はその子をクリさんの部屋に案内してあげた。

「で、用件は何だ?」
僕は一瞬でもクリさんがこの子供を追い返すんだと思った事を反省したよ。子供を持っている親ならそうするだろうし、いや、普通の人でもこんな子供がなんでも屋に仕事を依頼してきても「お嬢ちゃん、お母さんは?」とか聞いてるはずだよ。そう、この人はとてつもなく好奇心がある人なんだ。ネットを検索して自分の力で見つけたこの『なんでも屋』にバスやら電車を使って辿り着いて、だいの大人を相手に仕事の依頼をしてくるような子供に、クリさんが興味を示さないはずはない。
その子は大事そうにリュックを抱き締めて、
「おじいちゃんを助けて欲しいの」
と言った。
「ふむ。おじいちゃんは病気なのか?」
横に首を振る女の子。
「ボケてるのか?」
強く横に首を振る女の子。
「金に困ってるのか?」
少し首を傾げた後に横に振る女の子。
「ではうつ病に掛かって自殺しそうなのだな」
うつむいてゆっくりと首を横に振る女の子。
「ふむ。では殺し屋に命を狙われてるのか」
はっとして女の子はクリさんの目を見て、そして頷いたんだ。って、え?ソレなの??
「おおかた不慣れな日本語で『カネカネキンコ』と叫びながらガムテープで不器用に口と鼻を塞いで窒息死させるどこかの国の人じゃないのか?」
それもう殺されてるし。
女の子はゆっくりと、あらすじはバラバラに、今、この場所に来ている経緯を話し始めた。色々と話しが飛び火して何度も本線に戻させて、要約すると内容はこんな感じ。
女の子は親戚のおじいさんの家によく遊びに行くのだけど、そのおじいさんの近辺で変な事がおき始めていた。例えば飼い犬がトラックに轢かれたりとか、大切にしていたコーヒーカップが割れていて、その破片がおじいさんの足に刺さっていたりとか、階段から転げ落ちて大怪我を負ったりとか。これは具体的に起きたことだけど、これ以外にもおじいさんの家に行く回数が減ったとか(これは親が女の子をおじいさんの家に連れて行っているから)何故かおじいさんと話をするのを両親が嫌っているような感じになったりとか、もうこの辺りは女の子の思い込みもあるんだけど、そういう色んな出来事から総合すると、女の子はおじいさんを守って欲しいと思うようになったみたいだ。
クリさんが『殺し屋』って単語を出した時に女の子の脳内の言語辞書から今の状況を『殺し屋』って単語にすっぱりと収まらせたからハッとしたんだと思う。だから殺し屋っていうのはあくまでもこの女の子の脳内の話であって、本当には存在しないと思う。
「気にしすぎではないか。犬がトラックに轢かれてぺっちゃんこになるのはよくある事だし、コーヒーカップが割れて足に突き刺さるなんて、年寄りじゃなくてもよくある事だし、それこそ年寄りなら毎日のように階段から転げ落ちたりもするものだろう」
「違うの!おじいちゃんに悪い事が起きたから、あたしがお祈りに行こうと思ったのに、行っちゃダメってママが言うの!」と、女の子はリュックの中身からジャリジャリと金属音を鳴らしながらクリさんの推測に必死に反論してる。
「助けるにしても具体的に何が起きているのかはっきりしない限りは助ける事は難しいな。それに、私も商売でやっているわけだから、貰うものは貰えないと仕事を請ける事は出来ない。それは社会科の勉強で習っているな?」
小学生に向かって社会科がどうのこうの言ってもダメじゃん。でもクリさんがそろそろこの話に飽きてきた事は解ったぞ。やっぱり殺し屋云々の話はジョークだったんだ。まさかね、こんな田舎の小さな街でそんな事が易々と起きるはずが無いよ。たとえ常識ハズレのクリさんであっても、その常識は認められないよね。
「お金なら持ってきてるから!」
女の子はさっきから僕が気になってたリュックの中から陶器で作られた置物みたいなものを取り出すとハンマーも取り出して…。って、まさかそれは…。「え、ちょっ」と僕が止めようとしたのは一瞬遅れて、いやーな音が響いて陶器の置物は粉々になった。破片がクリさんの部屋に散らかる。そして、破片にまみれて大量の小銭が…。
「うわぁ…」
多分、全部足しても1000円行かないぐらいなんだよね。僕と女の子は小銭を破片の中から拾い集めて一箇所に集めていった。いくらあるのか、なんてくだらない事を計算しようとしてたりして。いつしかクリさんも粉々に散らかった破片の中から小銭をつまみ出していた。しばらくそうやって黙々と分別作業をしてたんだけど、ふとクリさんの手の動きが止まって、そして、
「貴様はその歳でもう自分に出来る事と出来ない事の分別がついているのだな」
と言った。女の子の頭を撫でながら。
「よし、手伝おうか」と、クリさんはその言葉を続けたんだ。
「へ?」と、これは僕の台詞。

僕は慎重に慎重に花瓶(直径10センチぐらいの細いやつ)の間に乾いた雑巾を差し込んで見えない埃を拭いた。いやぁ、本当に見えない、綺麗に掃除されてて、これでさらに掃除をしなきゃいけないのがわかんないよ。もう綺麗じゃん。あー、めんどくさい。僕もクリさんも掃除をする為にこのお屋敷に「メイドに扮して」来てるわけじゃないのにさ。なんでこんな事に神経と体力を使わなきゃいけないんだよ。
「ちょっと、貴方」
「ひッ!」
倒し掛けた。今高そうな花瓶を木っ端微塵にするところだった。
「ちゃんと花瓶をどかしてから拭いて」
「は、はい」
メイド服を着るのは美人で若い女の子だけ、という僕の中の常識は覆されてしまった。目の前に居るのは40台後半、もう熟れすぎて熟れすぎてくだもの屋では良くてジュースになるか、悪くて豚の餌になるだろう売れ残りの果物という妙齢な女性だった。実はこの人がメイド長なんだよね。こんな人がメイド服を着るのはメイドという言葉に失礼じゃないのかな。いかにもお局(おつぼね)さんという感じだしさ。
『随分と立派に』
「ひッ!」
「?」
僕はクリさんの電脳通信を受信しちゃった時にまた声をあげて驚いてしまった。突然頭に声が響くもんだから。もうちょっと話し掛ける準備的なものを用意して欲しいものだね。
『なに?』
『随分と立派にセキュリティが施されているな。今調べて周ってるが』
『殺し屋がいるかどうかの調査?』
『うむ』
『居ないと思うけどねー、あたしは』
『ほう』
『ただの偶然だよ。偶然。子供はそういう映画みたいな話が好きだからさ。殺し屋なんて日本にはいやしないよ。まず銃器の持ち込みが出来ないじゃん』
「あら、ナオさん、でしたっけ?どうですか?メイドの仕事は」
『あ、ちょっと通信切るね』
僕に話し掛けてきたのはこの屋敷で働いているメイドさんの一人だった。名前は確か…美咲さん、だった。ツインテールに栗色の髪、クリっとした目にバランスの取れた顔、僕やクリさんにも勝るとも劣らぬスタイルの持ち主。特徴のある甘ったるい声の女性だ。たしか大学生って言ってたかな。住みこみでメイドの仕事をする一方で大学で勉学に励むとは、自堕落な生活をしている僕とかぶーちゃんとは住む世界が違う人みたい。
「う〜ん。まだ慣れないみたい」
「そう。でもすぐに慣れると思うよ。大丈夫、あたしも1ヶ月ぐらいでメイド長に叱られる事も無くなったから」と、笑顔の美咲さん。真面目なイメージがあるから、この笑顔を使って色んな男を落とせそうだけども、あえてそういう事はしないだろうね。この笑顔は男を待つタイプだね。
「い、一ヶ月かぁ…最低一ヶ月、怒られないといけないんだね…あはは…」
「あら?お客さん?」
美咲さんのこの声と同時に僕の電脳にも玄関の映像が入る。ちなみに、ここでメイドとして働く時には屋敷の管理を行うネットワークに接続しているんだ。
美咲さんの軽やかな足取りを僕は追いかけて玄関に行く。
扉をゆっくりと開けると、スーツ姿の二十歳ぐらいの女性がいる。僕よりも少し身長は高い、黒髪を後で括りつけている。メガネも黒。教育ママがしてそうな尖がりメガネだ。ちょっとセンスは悪いかな。いや、センスだけじゃなくて目つきもちょっと悪いかも。その目は僕と美咲さんをジロジロと見て「破廉恥な格好ね、いやらしい」とでも言いそうな風にしている。メイドという文化を無理やり日本に持ち込んでしまっているのはアニメオタク達の所業なわけだから、彼らの存在を嫌うのなら必然的にメイドも嫌うのが筋だよね。そして、ジロジロと僕達を眺めた後に、
「後藤さんはいらっしゃいますか?」
あの教育ママメガネを少し整えながら言う。
美咲さんが丁寧な言葉で答える。
「後藤銀二様ですか?」
「はい」
「アポイントメントは取られてますか?」
「いえ」
後藤銀二というと、あの女の子に警護を依頼されたおじいさんじゃないか。このお屋敷の持ち主でもある後藤銀二おじいちゃんは金持ちなわけだから、それに用事がある人もそれなりの格好をしているのが筋。僕の目の前に立ってるOL崩れな女性はどう考えてもおじいさんのお客さんとは思えない。もしかして、この人が殺し屋?目つきも悪いし。
僕はその女性の開けたスーツからブラウスとスカートの境界線辺りをジロジロと見てみた。何か黒っぽい革製の入れ物が隠れている。入れ物の形からすると、ペンとかを入れるには大きすぎるし、財布を入れるには形がちょっと不自然。その入れ物から黒光りするものが顔を覗かせている。なんだろう、この黒光りするものは。形が凄く拳銃に似てるんだけど。拳銃の形をしたライターかな。
いや、これ拳銃じゃん!
僕はとりあえず一歩前に出て蹴りが入るぐらいの位置に来る…。
どうやら美咲さんは拳銃の存在に気付いていない。アポイントメントが取れていない方はお通しする事が出来ませんとか、そんな事よりも拳銃だよ、拳銃!この人ヤバイって!
大丈夫。いや何が大丈夫かわかんないけど、この前みたいなヘマはしない。この前は包丁を持ったキチガイ女にあと少しで殺されるところだった。その時は格闘プログラムをダウンロードし終えてなかったから抵抗する事無く殺されてしまう結果になっただろうけど、今回は大丈夫。既にインストール済みだから。この女の人が人間なら、拳銃を手に持つ前に弾き飛ばす事も可能。
教育ママメガネの女性は拳銃が入っている反対側の胸ポケットから黒い手帳らしきものを取り出した。ん?これって…警察手帳?
後藤涼香さんから警護を依頼されまして。事件性があるかどうか確認だけです」
涼香っていうと、あの女の子の事だな。あの女の子、確か僕とクリさんに依頼する前に警察に一回話しに言ったけど相手にされなかったって言ってたっけ。結局、警察が着てくれたじゃん。
「え、警護?え?」
思わぬ返答に混乱する美咲さんを尻目に、ズカズカと屋敷の中へと進入してくる教育ママメガネの警察官。屋敷の中を一通り見渡している。見渡すだけで事件性が分かるのかな?と、そこで、2階の廊下からクリさんが現れた。さっきまで屋敷のセキュリティの調査をしてたのが終わったから、ようやく本来のお仕事をしているという感じ。廊下にモップをかけている。
「あ?」
その警察官の女性はクリさんを見るなり、そんな疑問とも驚きとも取れる声を上げている。
「これはこれは、こんなところで会うとは奇遇だな」
「貴女、こんなところで何やってんのよ?」
クリさんの知り合い?犯罪者のクリさんが警察に知り合いが居たなんて。どうりであれだけ悪い事をしてても逮捕されないと思ったら、内部に協力者が居たのか。
「何って?『メイド』だ」
「メイドですって?貴女のような人がそんな格好して、こんなところで廊下にモップをかけていて、それで誤魔化せると思ってるの?怪しすぎるわ」
同感…。
クリさんは凄い勢いで水が垂れまくってるモップを(水つけすぎじゃないかな)持ったまま2階から1階へと続く大きな階段を下りてくる。絨毯の上に水がボタボタと垂れている。美咲さんが「ああああ!」と叫んでいる。
「怪しすぎる?この私がメイド服を着て金持ちの屋敷で掃除をしていてはいけないのか。コンビニで90円のコッペパンと70円のパックの牛乳を買って夕食にするのだが、その為の資金を稼がなければならないのだよ。国から支給された商品券は既に使い切ってしまっていてね」
ようやくクリさんが1階のフロアに足を置いた時には、2階から1階へかけて水による滲みが点々と続いていた。階段の支柱に水でビチョビチョのモップをビチャッと置いた。絨毯の滲みととりあえず置いておいて、拭けるところは拭いておこうと美咲さんは乾いたモップでクリさんの後始末をしてる。
「で、貴様は何をしてる?」
警察官にも『貴様』呼ばわりですか。
「何って。子供が貯金箱持って警察署に来て、おじいちゃんを助けてなんて言うもんだから何事かと思ったわ。事件性は無いから子供の戯言って事で誰も相手にしなかったけど、何か気になって来てみたのよ。で、来てみたら貴女がいるし」
『この人、クリさんの知り合い?』
『まぁ、知り合いだな。警察の中の知り合いだ』
『「貴女がいるし」って、クリさん、この警察の人からはどう思われてるの?』
『さぁ。理由はよくわからんが犯罪者だと思われているらしい』
『…』
いい勘してるなぁ。当ててるし。
「しばらく、調べます」
ズカズカとその警察の女性は屋敷の中へと入っていった。本当は捜査するにもレイジョウとか必要だと思うんだけどなぁ。

僕とクリさんは厨房で食事の用意をしていた。
あらためて考えてみても、僕のイメージしているメイドさんは掃除をしても食事を作ることは無いんだ。掃除以外には館のイヤラシイ主人とエッチな事をしたりとか、学生服を着て主人公と一緒に学校に通ったりとか、そういうことしか思い浮かばない僕は変態さんなのですか。
「ねぇ、クリさん」
「ん?」
「メイドってなんで食事の準備もしなきゃいけないのかな」
「ふむ。そもそもメイドっていうのは英語のメイド(作る)からきてる。食事にしかり、子供にしかり、色々と作らなければならないものがある」
「ほぉ〜…」
なるほど〜。クリさんは色々知ってるなぁ。
「ときに、ナオ、さっきから何をしてるんだ?」
「じゃがいもの皮むきだよ」
「それは最後には何になるんだ?」
「マッシュポテト」
「ほう。マッシュポテト!ふむ。私も米軍に所属していた時は、食事にマッシュポテトがよく出されていたな。マッシュポテトを食べるアメリカ人を想像してしまうよ。歯に歯垢がコケの様にビッシリとこびりついているのだ。アメリカ人というのは基本的に、乾燥した場所で生活していた連中だからな、身体を洗うという習慣が無いのだ。身体を洗わなければ歯も磨かなくなる」
「…マッシュポテトを食べて歯を磨かない時には歯垢がコケみたいになるって言いたいの?」
「いや、そういうわけじゃないが、私はマッシュポテトを見るとそのコケみたいにビッシリと歯垢がくっ付いている歯を思い出すんだ。ただそれだけだ」
「あたしは思い出したくないなぁ…」
鍋にひたひたの水を入れて皮むき済みのポテトを放り込んで火にかけた。マッシュポテト完成まであと少し。でも、これだけ沢山のマッシュポテトは誰が食べるのかな。やっぱりお屋敷には庭師とか馬師とかスケベで食べ盛りの主人公が居たりするのかな。居てくれないとこのマッシュポテトを冷蔵庫に仕舞って腐るか食べ終わるまで毎食出し続ける事になるよ。
「クリさん、ところでさ〜」
ってまた話しかける僕。
「なんだ?」
「さっきの警察の女の人って、誰なの?」
「彼女はサイバーポリスの人間だ。名前を押野めぐみと言う」
「サイバーポリスって、コンピュータ関係の犯罪に係わってる人達でしょ?おじいさんの命が狙われてる事って何かコンピュータが関係してるのかな?」
「いや、押野は昔から余計な事に首を突っ込む奴なんだ」
「ふ〜ん…」
「『早撃ちの押野』って通り名があってな。サイバーポリスに所属していながら拳銃の使用回数が日本の警官の中でトップ10入りしている。通常は狙う際には当たりやすい胴体を狙うのだが、押野の場合は無意識に頭を狙うらしい。職務中に撃った弾と殺した人間の数が同じという警官は押野を除いていない」
「ちょっ、その人ヤバイんじゃないの…」
「まぁ、もともとテロ対策課にいたのだから銃を撃つ機会が多かったのが勝因だろうな」
そんな話を僕とクリさんがしていると、キッチンにズカズカと入ってくる人がいる。噂をすればなんとやら、押野さんだ。押野さんは服のボタンを留めるのが面倒くさいのかとめるだけの時間がないのか、ダルそうな着用をされた服は懐のリボルバータイプの拳銃の重さや、ジャリジャリ言ってるアクセサリー類の重さで全開しちゃったりしてる。
「こんなところで何をしてるの?」
開口一番にそれを言った。クリさんがそれに答える。
「何をしているって、見て分からんのか」
「貴女の場合、見たままの様子がやってる事といつも同じわけじゃないから、こういう聞き方をしなきゃいけないのよ」
確かに、クリさんはさっきから料理を作りながら裏ではAIを動かして屋敷のシステムをハッキングしてるよ。ログとか中継データとかプロセス解析以外の方法でクリさんがハッキングしてるのを予測してる人はこの人以外にはいないだろうなぁ。ほんと、いい勘してるよ、この人。
「何作ってるの?」
押野さんは僕の料理してる様をみて、何を作ってるのか気になっていたようだ。そんなに僕の料理を作ってる様子って異様なのかな。クリさんも気になって聞いてきたぐらいだし。
「マッシュポテト…」
「マッシュポテト?やだわ、貧乏臭い。政府からの配給だけで生活してるような人の食事じゃないの。芋ばっかり余ってしまって、それを消費するために作るみたいな」
うぅ…悪かったですね。政府からの配給だけで生活したことあるよ、アニメグッズ買いすぎてさ。確かにそれで芋ばっかりあまった事もあるさ、他に食材がないからマッシュポテト作りましたよ…。芋ばっかり食べてますよ…。ったく、いい勘してるなぁ。
「貴女は何を作ってるの?」
今度はクリさんに言ってる。
「瀬戸内海風、カラス貝の白味噌のムニエル」
「なにそれ?」
「読んで字のごとし」
「ダメよ、ダメ。どうせレシピをダウンロードしてその通りに作ったんでしょ?ダメ。そんな料理は愛が入ってない。愛の入ってない料理はコンビニ弁当以下よ」
「愛?愛液を入れればいいのか?」
「ちがう!」
「不純物も入るから料理の味としてはちょっと塩辛くなるが」
「だから、愛液じゃなくて愛よ!愛!」
「で、それはどういう物質で構成されているんだ?」
「し、知らないわよ!そんなの!」
と、二人は話を続けている。
僕は押野さんに批判されながらも、なんとかマッシュポテトを作り上げたよ。どんなに批判されても、これは僕の作った料理なんだ。誰のマネもせずに僕が作った僕が美味しいと思った料理。だから、僕は誰に批判されてもいい。美味しくないとか言われてもいい。少なくとも僕はこの料理を評価してるから、僕がした行動は無駄ではなかったんだ。
そして、僕のした行動は確かに無駄にはならなかった。僕のお腹を満たす事に役立った。そして、僕やクリさん、そして、押野さんのお腹を満たす事には役立った。けども、本来満たす予定だったご老人のお腹を満たす事にはいたらなかった。残念。
ご老人に出された料理は美咲さんが作ったものだった。
まぁいいや。僕の料理はご老人以外のみんなで食べたし。クリさんの料理に比べたらマシだよ。愛液とか呼ばれる得体のしれない液体を注ぎ込まれていたらしく、クリさんだけしか食べなかったらしい。クリさんは押野さんに味見を要求してたけどね、食べた後で「愛液を入れてみた」と言ったら、押野さんはすぐさま嘔吐した。僕は嫌な予感がしたので食べなかったけど。
それから僕とクリさん、そして押野さん、美紀さんの4名は、ご老人が食事をされる様を部屋の片隅で待っていた。それはまさに映画の1シーンみたいだった。クリさんの愛液入り料理が出されなくてよかったよ。「なんかショッパイけど、何が入ってるの?」なんて言われた日には目も当てられない。
ただ、突然なんだけど、ご老人が咳き込み始めたんだ。
それから「うッ!」とか言って倒れた。
メイド達、つまり、僕達はご老人の周囲に集まり、「大丈夫ですか?」(大丈夫なわけないけど)身体をゆすったりした。微動だにしない。ヤバイ。死んでる?
「救急車を呼びましょう!」
と美咲さん。
でもそれを制して押野さんはご老人の喉奥を見てから、
「掃除機を持ってきて!」
と叫んだ。そうか、喉に何か詰まってるんだな!
僕とクリさんは急いで掃除機を運んできた。
「よし、引っ張り出すぞ!」
ご老人を逆さまにしてから、背中を叩きながらご老人の口の中に掃除機の口を突っ込む。スイッチオン(強)。ご老人の身体がビクビクする。しばらくして、ポンッ!と勢いのいい音がしてから、ゴホンゴホンと息を吹き返した。でもはたからみたらこの光景、拷問してるようにしか見えない。金持ちのおじいさんにするような事じゃないよね。
「ふむ。あと数秒で酸素が脳にいかずに窒息死するところだったぞ」
「あぶなー!」
クリさんの手には先程までご老人の気管に入っていたと思われる餅みたいなものが握られている。大きさは大きくもなく小さくもなく、2〜3センチぐらいというところかな。
「これを作ったのは?」
押野さんが言う。
確か、これって、
「美咲さん?…え、でもさ、普通のお団子だよ」
「小さくもなく、大きくもない。絶妙なサイズよ」
「でも…」
「で、その肝心の美咲さんはどこへ?」
押野さんがそう言ってフロアを見渡すけども、さっきまでそこにいた美咲さんが居なくなってる。てっきり救急車の手配にでも行ったと思ったのだけれど、それが屋敷まで来る気配も無いようだし、いったい彼女はどこへ行ったのだろう?

夜。
既にご老人はお布団の中へ。
つい先程までご老人の部屋の前で拳銃を持って(それも物騒だと思うけど)ウロウロとしてた押野さんがメイド待機部屋まで戻ってきた。
「それで、美咲さんは帰ってきた?」
開口一番にそれを言った。
部屋には僕とクリさんしか居ない。だから首を横に振ってたんだ。
でも、その5秒ぐらい後に後のドアが開いてメイド長さんが入ってきた。
「美咲さん知りません?」
振り向いてメイド長に聞く押野さん。
「あら、さっき銀二様のお部屋に入るところを見ましたよ」
押野さんも、クリさんも、そして僕すらもその言葉で一瞬凍りついた。
「さっきって、私、1時間ぐらいご老人のお部屋の前に居たのよ!」
部屋を飛び出す押野さん。追いかける僕とクリさん。1階の廊下を全力疾走して2階への階段を駆け上がり、ご老人のお部屋の前に行く押野さん。
「さがってなさい!」
銃を構えて、ドアに向かって蹴り。
あの細い身体のどこにそんな力があるのかと、押野さんサイボーグ疑惑すら沸いた。蹴りはドアを跳ね除けて、それから月明かりでメイド服姿のシルエットに映る。
やっぱり美咲さんだ!
「みさ…」僕がそう呼びかけたその瞬間、押野さんの拳銃が火を噴いた。
一瞬「何を血迷ったの!」って思ったけども、それは押野さんの銃撃が美咲さんのソレよりも早かったからそう思っただけだ。確かに早かったんだ。だけど、致命的なミスは美咲さんの弱点が頭じゃないって事だった。
頭を吹き飛ばされて、周囲に脳髄やらを撒き散らしている美咲さん。あの綺麗だった顔なんて跡形も無い。あるのはアンドロイド特有のプラスチック骨格。そして、腕にはボウガンが隠されていたんだよね。押野さんの銃撃と同時に展開された腕のボウガンはボルトを発射して、そのボルトが押野さんの肩を貫いた。そのまま彼女の身体を後方へと吹っ飛ばして、高そうな花瓶の置いてあるテーブルにぶつけて、花瓶は粉々になった。
「押野さん!」
僕が駆け寄った時には既に押野さんは虫の息だ。
「クリさん、救急車!」
「もう呼んだ」
あれほど口うるさかった押野さんは口から血を流して息をするのが精一杯だ。ヤバイ、この状況、滅茶苦茶ヤバイ。
「アンドロイドの発砲よりも早く撃つなんて、新記録じゃないか」
クリさん…新記録達成後に死んだら意味ないじゃん。
押野さんは震える手で拳銃を持つと、それを僕に向けて差し出す。
って、なんだよ、それ、復讐してくれって意味?
「は、腹を狙いなさい」
精一杯振り絞った声はそれだけだった。
「しゃべるな」
クリさんが制する。
ああもうッ…面倒臭い役柄は全部僕に来るんだな!
僕はスカートを捲りあげてストッキングに拳銃を挟み込むと、さっき美咲さん…と呼ばれていた、首なしアンドロイドが窓を突き破って逃げ出したところから飛び出した。2階から飛び降りたら普通の人間なら下半身複雑骨折だろうけど、僕は頭がいいから、飛び降りる時も計算して飛び降りるんだ。例えば木なんてのを着地点にして、1クッション置いてから地面に降りる。
やれやれだな…またクリさんの家のライブラリからテロリスト製の銃撃ソフトウェアをダウンロードしなきゃならないなんて。

頭の無い美咲さんは、住宅街を走り抜けて繁華街へと逃げていく。
どうやら美咲さんという名のアンドロイドは視界が潰されてもスイスイと人混みの中を走り抜けれるのは、エコーみたいな装置(特定の周波数の音波を発して、その反響を検知する)で周囲の障害物を判断しているようだ。
僕はようやくクリさんの家のライブラリから銃撃ソフトウェアの中の「人混みの中で特定の人間だけを殺害する」プログラムのダウンロードが完了した。
一方で、頭の無いメイドさんが走ってるから、周囲の人は悲鳴を上げながら避けて通る。お陰で僕は位置を特定して距離を狭めるのに苦労はしなかったよ。それにしても、夜の繁華街を頭の無いメイドさんと、その後を同じメイド服の女の子が走って追いかけてる、異様な光景だ…。
ソフトウェアを起動。ターゲットを設定。周囲の人の動きとターゲットの動きを考慮して、確実に急所(押野さん曰く『お腹』)を狙えるタイミングを算出する。5秒後の予測位置が算出され、自分の視界に今の人の動きと、5秒後の人の動きが同時に映る。
ソフトウェアに身体の神経をいったん預ける。
スカートをたくし上げてストッキングに挟んでおいた拳銃を取り出し、構えたと同時に発砲した。さすが暗殺プログラム、この間、僅か1秒。
周囲に悲鳴。腰から横に真っ二つになって倒れる美咲さん。
何この銃、威力が凄いじゃん…。
それから30秒ぐらいで誰が通報したのか警察のドロイド数体がやって来やがって、そして包囲されて、僕は持っていた押野さんの拳銃を地面に放り投げた。
『クリさん!押野さんに言ってこのドロイドを大人しくさせてよ!』
「武器から手を離して地面に伏せなさい」
この馬鹿ドロイド、もう武器から手を離してるのにお決まりの台詞をいいやがって!
『クリさ〜ん!』
『今言った』
ドロイド達は僕に狙いを定めていた機関砲を解除した。

あの騒動の後から数日後、今度は本当に警護の為に警察が屋敷に配備された。押野さんはしばらく入院した後に現場復帰して相変わらず屋敷をウロウロしている。
「これって、いつまで警察がいるのかな?」
アフターヌーンティの紅茶セットを洗いながら、僕はクリさんい尋ねる。
「さぁな。犯人が見つかるまでじゃないのか」
「結局解らなかったんだよね」
「一つだけ解ったのはアンドロイドの美咲は柏田重工製だったって事だ」
「柏田重工?ああ、兵器メーカーの」
「そして柏田重工の株の20パーセントは後藤マテリアル。後藤マテリアルの現社長は後藤修造。つまり後藤銀二の息子だ」
「それは考えすぎだよ、クリさん。日本のメーカーでアンドロイド作ってて、しかも仕込みボウガンなんてのを手に入れようと思ったら柏田重工になるんでしょ」
「そうかな?」
「そうだよ」
その後、キッチンに入ってきたメイド長がクリさんだけを呼んだ。
僕一人になったキッチンに、杖をついて(それでもなお動き回ってる)押野さんが入ってきた。また僕が何を作っているのかをみて説教の一つでもしに来たのかな。と思いきや、
「この前は助かったわ」
お礼を言いに来たのか。
「いえ、別にいいよ」
「悪かったわね、銃を撃たせてしまって。どうかしてたわ、私」
まぁ、銃を撃つのは何故か何度も経験済みでして…。
「事件解決が警察の勤めなんだから、仕方ないよ」
と言っても本当は凄い大変な事なんだけどね。押野さんはあの後に随分怒られたんじゃないのかな。上司に。
「それにしても吃驚したわ、あなた、銃の腕前、なかなかじゃないの。あの『じゃじゃ馬』を使いこなすなんて」
「じゃじゃ馬?」
「アルケット社の『ベロニカ』。12ミリ特殊貫通弾搭載の、通称『ドロイド・キラー』よ。男でもちゃんとしたフォームで撃たなきゃ反動でひっくり返るのに、いとも簡単に撃ってしまって、しかも初弾でクリティカルヒット出すなんて、とても素人と思えないわ」
そんな危険なモノ持たせて繁華街を追跡させたのですか…。
「まぐれですよ…」
「まぁ、いいわ。それより、貴方達は依頼を受けてここで警護の仕事をしてるんでしょ?さっき聞いたけど」
「あ、はい」
「それ、もういいわ。後は警察がなんとかしておくから」
「そうなんですか。じゃあ、クリさんに伝えておきます」

翌日、僕とクリさんはお屋敷に荷物を片付けに来てたよ。撤収さ。
クリさんはちゃっかり警察からも『御代』を貰ってた。確かに、あの子供の依頼とは言え、貯金箱に入ってた小銭を御代として貰うわけにもいかないからね。
僕達にとって屋敷にいるのは今日が最終日となる。
その最終日にはあの女の子(最初に僕達に依頼した人)も家族と一緒に来ていたんだ。ただ、親戚の家に家族と一緒にくる時の子供っていうのはもう少しはしゃぐもんだと思ってたけども、あの女の子にはそんなものが見えなかった。少なくとも、僕やクリさんに依頼をしにきた時よりもふさぎ込んだ風にも見えた。まだあんなに小さいのに、まるで反抗期で親と口をきかないような、そんな雰囲気すらあるんだよね。やっぱり屋敷に警察の人が沢山来ているから、それをみて恐れてるのかな。(でも、それはあの女の子が望んだ事なんだけどね)
僕がメイドさんの休憩室で自分の荷物やらを片付けていたら、クリさんが昨日のご老人との話をしはじめた。
「ご老人、後藤銀二から依頼を受けた」
「へ?どんな?」
「知り合いの弁護士を紹介して欲しいと」
「ふーん…っていうか、弁護士ならあの大金持ち専属弁護士でもいるんじゃないのかな。なんでわざわざクリさんみたいな一般人に頼むのかな?」
「知らん」
専属弁護士が絡むと身内に知られるから、それが嫌なのかな。とか考えながら片づけをしていたら、廊下のほうから悲鳴が!この悲鳴はメイド長さんのものだ。(ちょっとかすれたお婆さんの悲鳴みたいだから)2階ご老人の部屋の辺りからだ!まるで探偵モノ小説の1シーンにでも紛れ込んだかのような気分で、僕とクリさんはご老人の部屋まで走った。嫌な予感がする。
メイド長さんが廊下に倒れている。腰を抜かしてへたり込んでいる。
僕とクリさんが最初に到着。それから部屋の中を見たんだ。
日の光が映し出したのは黒のシルエット。天井の照明の器具からロープを垂らして首を吊っているご老人、後藤銀二さんの姿だった。
「おじいちゃん!おじいちゃん!」
気がづけば警察もいたし、あの女の子も来ていた。僕は女の子にご老人の姿を見せないように目を隠して抱き寄せた。
「あんた!何やってたのよ!」と、押野さんが自分よりも10も20も年上の刑事を怒鳴り散らす。どうやら押野さんは警察庁直下に所属しているから地方警察官よりも立場が上らしい。
「気が散って寝れないからと、少し離れた場所に居てくれと言われて」
メイド長さんや、刑事さん達に見守られながらご老人の遺体をゆっくりと床に降ろされた。その間、僕とクリさんは女の子を別の部屋へと連れて行った。彼女にショッキングな記憶を残さない為にも。
でも、そこで女の子は僕に話し掛けてきたんだ。
「ねぇ、おじいちゃん死んだの?」
なんて答えればいいのか言葉に詰まる。
死んだのだから死んだんだと言えばいいのか。それともオブラートに包み込めばいいのか。オブラートに包み込むってどうやって?「星になった」とか?いい言葉が思い浮かばない。僕の両親も死んだけど、僕はその死をすぐに受け入れた気がする。死んだと解っているのに、死んだのかと聞いてきてるのか、この女の子は?
「ああ、死んだ。自殺だ」
「く、クリさん?!」
「だが事実だ」
「…でも」
「人は事実を知って、そこから正しい選択を行う。嘘やごまかしで塗り固められた歪んだ事実は人に間違った選択をさせる」
「選択って、この子はまだ子供なんだよ」
女の子のほっぺたには大粒の涙がぽろぽろと落ちていった。
「どんな人間でも産まれたその瞬間から選択を積み重ねていくものだ。そして一人の人間としての個が画一されていく。後藤銀二の死もこの子の『個』を画一する為の大切な要素の一つなんだよ」
「…」
それからクリさんは、女の子の頭に手を置いて撫でながら、
「すまないな。守ってやれなくて」
そう。彼女のおじいさんを守ってあげれなかった事も『事実』だった。

数日後、クリさんの紹介した弁護士から色々と情報が入ってきた。
いわゆる、後日談。
その弁護士はもう定年は軽く過ぎていて、小さな街で小さな事務所を開いて、ときおり入ってくるような小さな仕事をチマチマとやっていたらしい。でも高齢な事が幸いしてか、銀二さんは生前に色々と話してくれたそうだ。
あの女の子のおじいちゃんこと、後藤財閥の現当主、後藤銀二さんはずっと前から自身の命が狙われている事は薄々気付いていたみたいだった。でも例のアンドロイドに狙われるまで、彼の命を狙っていたのが彼の実の息子達だという事だけは解らなかった。もちろん証拠なんてないから、証拠なんて『残されなかった』から、ご老人だけの思い込みだったのかもしれないけども、それでもアンドロイドが自殺に見せかけてご老人を殺そうとした事で、実の息子達に命を狙われている事はご老人の中で確かなものになった。
あの時、押野さんが部屋に入ってご老人を助けてくれた。けれども、いずれまた命を狙われる。それに、今回押野さんは助かったけど一歩間違えば死んでいた。ご老人を守る為に優秀な若い警察官を殺してしまうって思ったのかも知れないよ。それにね、自分の本当の息子達に命を狙われているという事は、もうご老人にとって「生きていてもしょうがない」って思わせるには十分な事実だと思う。
だからご老人は人生の最後の『選択』をしたんだ。
自分の事を大事に思ってくれる人に、自身の財産の全てを託そうと。
遺書を書いて弁護士にそれを渡した。
「私に何かあったら、財産の全てを後藤涼香へ引き継ぐものとする」
後藤涼香。つまり、最初に僕達に依頼をしたあの女の子だった。
クリさんとクリさんが紹介した弁護士は、後藤銀二さんの命を狙ったのが彼の子息であるという数々の証拠を洗い出して裁判所に提出。このままいけば財産を引き継いだ後藤涼香が命を狙われる危険性があると、孤児院の施設への転入手続きをした。
クリさんは僕に「どんな人間でも産まれたその瞬間から選択を積み重ねていく」と言った。
確かにそうだけど、あの女の子に後藤財閥の一人として産まれてくる事を選択する権利はなかった。選ぶ事が出来るのなら自分から不幸な選択肢は外すさ。僕だって。
僕には両親はいないけども、3人で過ごした平凡だけれども価値のある時間が間違った選択をしないで、今の僕を作っている。だから、あの女の子が殺人犯の子供…いや、財産を狙って実の親を殺そうとした人間の子供としてこれから生きてく人生が、いったいどれだけ女の子の心を傷つけて、間違った選択肢を選んでいくのだろうかと、それが心配だった。
人は傷つけば、誰かを傷つけようとするものだから。