自殺という選択肢

つい先日a munkの小・中学での同級生が自殺して亡くなった。
特に親しいというわけでもなくただの同級生なので葬式にも出なかったわけだが、ふと自殺について思う事があったので書いてみた。
前にも書いたがa munkも2度、自殺を考えた事がある。
1度目は小学の時で、クラスの担任とクラスメートが共同でa munkをイジメていたのが原因。もう一つは今の会社に入社してから上司からパワハラを受けていたのが原因。
よく、「自殺するぐらいの根性があるなら不満に思っている事にぶち当たればいいだろう」「自殺するぐらいなら闇金に手を出して逃げ回ればいい」「復讐してから死ね」などというメッセージがこれから死のうとしている奴の元へと送られることがあるが、それは自殺する奴の心理を本当によく理解していなくて書いていると言える。
例えばイジメにあったとする。もし、全面に「悔しい」という気持ちが出たのなら復讐するだろう。だが自殺の心理はまず最初に「今すぐにでもこの場所から逃げ出したい」という気持ちが全面にでる。色々考えた末の決断とかじゃなくて、「今すぐにでも」というキーワードが重要だ。ひょっとしたら抜け道や逃げ道もあるかもしれないし、お決まりの台詞「生きてりゃ良い事もあるさ」かもしれない。でも、そんな事を考える余裕すらなく、「今すぐにでもこの場所(この世)から逃げ出したい(死にたい)」なのだ。
人が本当に賢い動物で先の先まで予測しようものなら自殺なんて選択肢は無いかもしれないが、中途半端に賢いせいでちょっと先の未来だけ予測してそこが「まっくら」だと「死ぬ」という選択肢を選んでしまう。頭が「ちょっとだけ」良い動物の欠陥という奴なんだろうか。そういう状況は気軽に体験できるものではないが、体験した者でなければ自殺の心理は判らないだろう。
結局、今こうやってブログを書いているという事は「死なない」という選択肢を選んだ事になる。2度も死のうと思っておきながらなぜ今は生きているのか。むしろ、なぜ生に執着しているのか。これから自殺しようと考えている奴にその理由を書き残して置こうと思う。
もしこの世に運命というものがあり、その運命に従って惰性で生きていたとしたら、おそらく死を選択する3度目の自殺志願のタイミングがあったと思うし、3度目に自殺を諦めても4度目があっただろう。だから「あの時、○○さんが○○してくれたから」などという他力本願的なものはない。もしそういう理由で自殺を諦めたのなら、多分、何度でも自殺しようとする。たまたま死ぬか生きるかの選択で生きるほうを選択するだけの他からの力が働いただけだ。
2度目の自殺を考えた時に、悟りのようなものを開いた。生と死を考えた。なぜ人は生きているのか。その時、今までの人生を振り返って、消去法で生きている理由を探した。
誰かに愛されるから生きているのか?それは違う。人は愛することもできれば残酷にもなれるから。血の繋がった親ですら自分の子供を殺める事はある。それは自分だから例外などはない。だから逆に誰かを愛するから生きているという理由も違う。
上の理由から、人以外の動物が子孫を残すという事を生きる理由に挙げているが、それは自分には当てはまらない事になる。
社会に(誰かに)必要とされる為に生きているのか?もちろん、これも違う。全ての人が必要とされているのかって言われるとNoだから。世の中に必要とされていない人間なんてごまんといる。
金や地位か?これも違う。持たない者が持ったとしても、持つ者が持ったとしても、その幸福度は同じ。確かに生きていくために必要なものではあるけれど、生きていく意味に当てはめるにはあまりにも陳腐なものだ。
結局自分に残ったものは趣味だった。実際は趣味という小さな意味合いのものではない。探究心というべきなのか。人の愛も、人の作り出した社会も、そこで歯車として動くことも、金は地位や名誉も、全て信用できなくなった果てに導き出した結論は探求する事だった。
思い出してみれば小学の時に自殺から気を逸らしたのは家庭用ゲーム機だったと思う。たかがゲームだとか、人生から逃げているだとか、多くの人はそう思うだろう。だが、自分にとっては愛も希望も無いクソみたいなこの世界で唯一の光だった。悟り?を開いてからは自分にとって色褪せていたこの世界は再び輝きを取り戻していった。今までとは違う色で。
その間多くの人が悩んだ。掲示板で自殺をほのめかす人々は、その悩みといえば人間関係であったり、借金であったり、恋愛事であったり。趣味の話など入り込む余地はなかった。彼らにとってそれはバカバカしい事だった。子供の遊びだった。彼らにとっては愛される事や社会に必要とされる事がすべてであり、趣味はオマケなのだ。
花咲き乱れる春も、暗闇に彩る夏の夜空も、紅葉と涼しげな空気の秋も、白化粧が別世界に変える冬も、彼らにとってはオマケだった。映画を見ても心を揺さぶられない。アニメも見ても萌えない。食べ物は腹を満たせばなんでもいい。ラーメンとハンバーガーとコンビニのおにぎりのループだった。
彼らは常に自分の事だけを考えた。自分は必要とされていない。自分は何も無い。自分は愛されていない。自分は情けない。自分は…。彼らは外に目を向けようとしなかった。なぜ人は生まれたのか?なぜ動物は生まれたのか?なぜ生物は生まれたのか?いくつもの死を乗り越えてでも生物はこの宇宙に存在し続け、自らの身体に改良を重ね、宇宙の真理を解き明かして自らの力としてきた。だが、これから自殺しようとしている彼らにはそんな事はどうでもいいことだった。今は自分の事で精一杯で、次にもし自分の事で精一杯にならない時がきたら、そしたら宇宙の真理を考えるから…いや、そんな事は考えないや。どうでもいい。金があって、友達がいて、恋人がいて、あわよくば色々な人に愛されるそんな人生が突然やってくるのなら、別にどうでもいい。
そして神はそんな人間に罰を与えた。
お前はいらない。自らその生命を絶つがいい。

同僚はパワハラを苦に辞職した。
同じようにパワハラを受けていたが、自分にとっては苦にならなかった。上司は…彼らは自分の事を否定した。自分の人格を、自分の歩んできた人生を、自分の社会的地位を否定し続けた。へし折ってやろうとしたのかもしれない。だが折れなかった。なぜなら自分は既に彼らの存在を否定していたからだ。彼らの存在する人の世界を、彼らの定義する人の愛を、彼らの定義する人の価値を否定した。
便器にこびり付いたクソが自分の正当性を主張している。だがクソはクソどんなに地位のある奴でもどんなに金のある奴でもどんなに多くの人に愛されている奴でも、この宇宙にある様々な真理に比べればちっぽけな存在だ。瞬きの中にある輝きだ。次の瞬間にはそこには居ない。

ある者は誰かに愛されることを願った。望まずに生まれてきた自らの運命を呪い、死んで初めて存在を証明しようとしている。誰もそんなちっぽけな存在なぞ気にもしていないのに。
ある者は優秀な自分を保とうとした。空っぽの空間に芽生えたプライドという透明な塊を必死に守った。それが傷つけられた時、自分が社会に必要とされていないと勝手に理解した。社会とはただの集合体で意識なんて無い。そんなものに「必要とされる」と世迷言を曰う。
ある者は金をしこたま稼いだ。でも砂の上に水を垂らすように、いつまでも乾きは消えない。いつしかタップリとたまった桶の中に見えるか見えないぐらいの砂が浮いている。それが自分だと悟る。
ある者は金がないと嘆いた。子供がチラシの裏紙に鉛筆で書いて作った肩たたき券となんら変わりはないのに。本当に大切なものはそんな紙切れじゃない。でも気付かない。無いものを手にすればいつかは気づくと弁明するが、手にしなければ気付かないものは手にしても気付かない。世の中は金が全てだと言った自分自身は、幼い日に一番嫌いだった大人のソレだった。
みんな必死に幸せになろうとしている。
本当の幸せがなんなのか考えもしないのに。
そして不幸を並べるだけ並べて、理解すらしていない『幸せ』を望んで、『幸せ』ではないからと自らの命を絶った。