14 ペスパの抱き枕

仕事の無い平日のお昼。いつもの様に僕はぶーちゃんと一緒にクリさんの部屋でアニメ見てて、それが終わってからはクリさんのベッドに寝転がって漫画を見てた。
そこはふかふかのベッドで石鹸の香りがして、さらに窓からは素敵な秋の涼しげな風が入り込んでくる。まさに眠りの秋。僕は涼しい気候になると昼夜を問わず眠たくなるんだ。漫画をベッドの側にころんと落として、人の部屋だとわかってはいながらも眠ろうと思ってしまった。そしてふと壁側を振り向いてみると、そこにはウサギの人形が置いてあるんだ。いや、これはウサギじゃないや。ペスパっていうどこかの国の昼ドラで出てくる人形だ。ドラマの中では女の子がこの人形を抱き枕として使ってるんだ。ペスパの抱き枕って呼ばれてる。
ほんと、僕は相変わらずにも人の部屋のベッドでごろんと横になっては、人のペスパの抱き枕を胸の上に置いたりして眠ったりと、反省しなきゃいけないほどに、あまりにも自由に色々してるなぁ、と思ったよ。
そうそう、突然話を変えてしまうけど、僕は猫は好きだけど犬は嫌いなんだ。
大抵の犬嫌いな人はその理由として犬に噛み付かれた事とかあげるけどさ、僕はそれが理由じゃないんだ。いや、だからといって「犬は人間にヘコヘコするだろう、だから嫌いなのさ!」っていうわけでもないよ。何が理由なのかわかんないけど、ある時、犬が喜んでオチンチンを勃起させながら飛び掛ってくる時があるでしょ。あれが僕は大嫌いなんだ。僕はもちろん、犬は飼わないけどさ、友達の家に行った時にそこのペットの犬が飛び掛ってきて(既に勃起してる)何故か人間に向かって腰を振るんだよ。つまりは僕の足なんだけどね。
しかも今回は、その犬、僕に飛び掛ってきて前足を僕の胸に(しかも乳首のとこに)ぽんとのっけて、顔を胸の谷間に挟んでスリスリするんだよ!なんだこの犬は!しかも友達は側でニヤニヤ笑ってるし。躾のなってない犬だなぁ…。
というところで夢が覚めた。って、あれ?今まで寝てたのか。
僕の上にはペスパの抱き枕が大きく手を広げている。何故か抱き枕の前足は僕の胸にちょこんと上に乗っている。…なんだろ?さっきまでこの人形、この体勢で僕の上に乗ってたのか。ん?この人形、視線はずっと僕のほう向いてたっけ?
「んん〜?」
僕は人形を抱えて宙に持ち上げてみた。
「ん?!」
やっぱり何かおかしい。この人形、いや抱き枕の目、普通の人形と違う?僕は人形を顔に近づけてジロジロと見つめてみた。という時に、隣でぶーちゃんが顔を真っ赤にしてる。そっちは少し気になったけど、人形のほうが気になるよ。また僕は人形の顔をジロジロと見たら、人形の目玉の奥にあるんだ…角膜が!
それが動いたんだ。
僕は慌ててその人形をぽいと投げた。
「あたッ!」
と何故かぶーちゃんが言う。
「ななな、なにこの人形変だよ!」
その光景をニヤニヤと見ていたのはクリさんだ。人形を拾い上げてぽんと椅子に乗せる。
「どうやらもうバレてしまったようだな」
「え?」
「そ、そ、そうみたい」
「ええ?」
えと、つまり。僕は電脳をフル回転させて熱暴走手前まで持っていったよ。そして今何が起きていたのか理解してしまった。この人形、リモートサイボーグの同じ原理なんだ。つまり、ぶーちゃんが遠隔操作してて、この人形の感覚器官(というとちょっと変だけど)と接続されてる。だから、
僕は人形を拾い上げると、それを思う存分力いっぱいに抱きしめてみた。
隣で顔を真っ赤にして息苦しそうにしてる。ぶーちゃんが。
「人形なんだから人形っぽくしなければならない。身体に力を入れずにぐったりするとか、目とかは明後日の方向を見るようにするとか、あと身体のどこかに力を入れるとダメだな」
「な、なかなか、うまく制御できないや」
ぶーちゃんが遠隔操作するペスパはトコトコと2足歩行して部屋の中を歩き回ってる。それから漫画を手にとって見てみたり、クリさんのひざの上に乗ってネット端末のキーボードを叩いてみたり、ポテトチップスを食べるふりをしたり!
ああ、なんてかわいいんだろう。自分も動かしてみたい!僕はぶーちゃんのおでこにおでこをくっ付けて無理に人形のアクセス権を取ろうと思ったんだ。
「あ、ちょ、ちょっと、だ、ダメ、ダメだよ!ナオちゃん!」
「うっへっへっへ」
セキュリティゲート1st突破。その時、何かが足に絡みつく感触。
ああ、ペスパが僕の足にしがみ付いて「やめて、やめて」って言ってる(気がする)やっぱりペスパはリモート操作のサイボーグなんだよね。完全にぶーちゃんの意識は無くて全部がペスパに持ってかれてるみたいだ。ハッキングはやめてあげよう。
「クリさん、これどこで入手したの?」
「台湾」
クリさんはそう言うと、モニターにペスパ視点の映像に切り替えた。つまり、ペスパを制御しているぶーちゃんの視点だ。まるで巨人でも見上げてるみたいに、モニターには僕達が大きく映っている。ペスパが椅子から降りると尚更に大きく映っている。
「凄いなぁ、小人になった気分だね!」
「よ、よし、そ、外に探検に行ってくるよ」
ぶーちゃんがコントロールするペスパはトコトコと歩いてクリさんの部屋から出て行った。よく見たらペスパって2足歩行なんだ。てっきり操作する人が2足歩行だからそうなるのかと思ってたけど、あの骨格も筋肉も2足歩行に作られてあるんだよね。そして、モニターにはその後のペスパ視点の様子が映されている。
最初は廊下を進んでいくペスパ。
向こうから振動が伝わってくる。ペスパは低姿勢だからこのボロアパートみたいな作りの悪い廊下は振動がとてもよく伝わるんだ。この重々しい足音は男性、それも身長も体重もそれなりにある。このアパートでそういう住人はぶーちゃんを除けば一人しかいない。網本だ。
網本は口笛を吹きながら歩いて来てるみたいだ。ガサガサと音が聞こえるから、これはコンビニで何か買って帰っているところなのかな。
「ぶーちゃん、網本に見つかるとヤバイ、と思うよ」
「う、うん。わ、わかってる」
ペスパは廊下の壁側に背中をつけて座った。その上を口笛と大きな影が横切る。よかった、網本は全然気付いてないみたいだ。道端に落ちてるゴミみたいに思ってるのかな。っていうか、このボロアパート、そこらじゅうにゴミが落ちてるんだよね。誰か掃除してくれないかなぁ。と、その間にもペスパは2階の廊下を歩いていって、階段のところまで差し掛かった。人用に作られた階段だから下りるのも一苦労だよ。ぶーちゃんはふぅふぅと言いながら階段を一つ一つ降りていった。
「ユキを驚かしてみようよ」
と僕はニヤニヤしながら言った。
突然、ぶーちゃんの身体がピクッと動く。な、何?
「だ、誰かいる!」
モニターに映っているのは女子高生2名。一人は小柄で肩まで伸ばした柔らかいクリーム色の髪、飾りが沢山ついてるバッグを肩からさげてる。もう一人は背が高い、160ぐらいはあるかな。ポニーテールの黒髪、スポーツ何かしてそうな人だ。その二人はユキの部屋の前で話をしてるっぽい。ユキの声だけは聞こえなくて、その二人の女子高生の声だけが廊下に響いている。話の内容からすると、学校を休んでるユキの為に何かを持ってきたっぽい。
「それじゃあね〜」とその女子高生のうち背の低いほうがバイバイとしてる。こんな事を言ったらユキに失礼かもしれないけど、ユキの友達にしては…ちょっと明るいような。
ユキの部屋の扉は風でゆっくりと閉まるような感じで「きぃ〜ぱたん」と閉まった。別に彼女の部屋だけ自動ドアになってるわけじゃないよ、普段から部屋の奥から霊的な何かによってひんやりとした風が外に漏れてきたり、勝手に扉が閉まったりする事があるだけだよ。二人の女子高生はさぁそろそろ帰るか、と出口に向かって歩き出しそうとしたその時に、背の高いほうがペスパのほうを見たんだ。丁度ペスパは階段を下りた後のとこだった。
「あ!ペスパだ!」
と同時に、遠隔操作してるぶーちゃんが叫んだ。
「や、ヤバイ!」
モニターの視点は階段のほうへ。目の前には富士山みたいに立ちはだかる巨大な階段が。ヤバイ、逃げ場無し。廊下はあの背の高いほうがズンズンと歩いてくる音が聞こえてくるんだ。一瞬だった。まるで空を飛んでるみたいに視点は宙に舞い上がる。それが女子高生によって持ち上げられてたという事は、目の前に背の高いほうの女の子の顔が見えたことでわかった。
「ペスパって、あのテレビの?」
「そうそう」
「え?いま動いてなかった?」
「動いてる!AI制御なのかな?」
「へぇ〜、かわいい〜!」
背の低いほうの女の子がペスパを取って胸に抱きしめてるみたいだ。視界が暗くなった後に、その女子高生のピンクのブラと胸の谷間が見えたから。
「ぶーちゃん?」
顔を真っ赤にしたぶーちゃんが顔の筋肉が緩んだ表情でぐったりしている。
「ああ、し、しあわせ」
「…」
なんという変態さんなんだ。ぶーちゃんは人形である事をいいことに思う存分におっぱいの感触を堪能しようとしてた。小柄なほうの女子高生の肩に掛かってるクリーム色の髪を両手で掴むと、おっぱいの部分に顔を押し付けてるんだ。
「ああ…石鹸の香りがするよ」
「ぶーちゃん、制御、交代して」
「だ、だめだよ、ち、近くで制御を切らないと交代できないんだ」
「じゃあこっちに戻ってくればいいじゃん」
「い、今の状況で戻ってくるなんて、お、男じゃないよ」
と、気付けばぶーちゃんのコントロールするペスパはさっきまでは髪を掴んでいたのに今はブラウスの襟を持って(正確には開いて)ピンクのブラと胸の谷間を露出させまくっていた。男と女というのは例えよく知る間柄でも欲求にまかせてイヤラシイ事をしたり出来ないって誰かが言ってたけどさ、それはあくまでお互いの関係を維持しなきゃいけないからだけど、今ペスパを間に置く事で維持しなきゃいけない関係が無くなってるんだ。これほど好きな事が出来る存在はないよ。
「きゃははは!くすぐったい!」と、ちょっと下品な感じに笑っている小柄なほうの女の子。で、クリさんは何かのプログラムを見ながらも、時々モニターのほうを見ては、「性欲過多なペスパだな」とニヤニヤしながら言った。
「これ、持って帰ろうかな?」
そう言ったのは小柄のほうの女子高生だ。
「え?でもこれってここのアパートの誰かのじゃないの?」
「えー。だって廊下に落ちてたよ」
正確には廊下を歩いてたんだよ。
結局、その小柄なほうの女子高生はペスパを持ち主へ返すって思考回路はないみたい…。ったく最近の学生さんは、落ちているものは自分の物だって思ってるみたいだ。大変な事になった。でもこんなに大変な事なのに、ぶーちゃんの顔は全然大変そうじゃない、むしろ幸せの境地みたいに。前までアニメしか自分には無いって言ってたじゃないかーッ!
それから、二人の女子高生はつまんない話をしながら帰路についてた。
小柄のほうの女子高生は『アヤ』、背の高いほうは『リョウ』って名前みたいだ。

アヤの家の前まで来ていた。既にリョウとは分かれてた。
「さぁ、つきまちたよ〜」
何故か赤ちゃん言葉でペスパに語りかけるアヤ。
それにしてもいい家だなぁ。まるでドラマにでも出てくるような家だよ。これが普通に『働いてる』家族の家というやつなのかな。2階立てだ。そりゃ僕の住んでるアパートも2階立てだけどさ、たぶん、アヤの部屋の中に生活の全てを押し込んだようなのが僕の住んでるところだと思うよ。そう考えるとうらやましくてうらやましくて…。そしてそのまま玄関から入っていくわけだけど、家の中もドラマのソレと同じ感じになってて、段々腹が立ってきたぞ。
「ねぇ、ぶーちゃん。いつまでそこにいるの?帰ろうよ」
「も、もうちょっとだけ。アヤちゃんがお風呂に入ってるシーンを覗くまで」
「あっそ…」
家にはアヤ以外は誰もいないみたいなんだ。たぶん、両親は共稼ぎ状態なんじゃないかな。こういう家は。玄関には「ただいま〜」というアヤの声が虚しく響いていた。返す言葉はない。そして静かな家にはアヤの出すトタトタという小さな足音と鼻歌だけが響いていく。
モニターには2階にあるアヤの部屋が映ったんだ。
でも、なんだこりゃ?
いや「なんだこりゃ」って言ってる僕のほうが変なのかも知れない。僕の部屋にはアニメのポスターだとか抱き枕だとかフィギュアとかがゴロゴロしてるから。ぶーちゃんの部屋だってそうだよ。クリさんの部屋なんかアダルトビデオのデータライブラリに取り込んでないやつが積み重なってるし、そういうのを見慣れてるから部屋っていう定義がそれになってたのかもしれない、けど…この部屋はなんていうか、テレビドラマで見てる女の子の部屋そのまんまじゃないか。
ピンク色の壁紙、壁に飾ってある無意味な小物。コンピュータが置いてない木の机(って何百年前だよ)それにこの整頓された部屋はなんだよ、ある意味、生活感がない。そう、それだ。さっきから感じてる違和感はそれだった。この家は生活する為の家というより、まるで見せる為の家だった。この部屋にしてみても、まるでアダルトゲームに登場する女の子の部屋だった。
「ぶーちゃん、この家、なんか…」
「はぁぁぁ!ここ、こ、これが女子高生の部屋かぁぁ!す、すごく、こここ、興奮する」
「…」
「ふむ。『ライサの私生活』だな」
さっきまで別のモニターでプログラムを組んでたクリさんが言う。
「え?何それ?」
ミランダ・アクトンという心理学者が書いた本だ。ある国にライサという女性がいて自分はどこにでもいる『普通の人』になりたいと思っていた。そして普通になる為に様々な人の生活を見て、その平均を自分自身の生活へと反映させていった。だがライサを知る人々にとって、一番の変わり者はもっとも平均に近いライサだったという内容だ」
「えと…その心は?」
「ん?心とは?」
「ん〜…心理学者だから、その物語から何か言いたい事があるのかと思って」
「ああ。人という生き物は社会的生活を営む為に個性を殺す事を重視する一方で、社会の発展の為にも個性的でありたいとも思っている。だから個性がないものや、個性が強すぎるものに言い知れぬ不安を抱いたりするものだ」
「じゃあ、あたしが感じた不安感はそれかなぁ」
「まぁ我々の住む環境が異常過ぎるという見方もある」
「…人を得体の知れぬ化学物質が大量に流れ込んでくる下水道の中で生活する未知の生物みたいに言わないでよ…」
「そういう環境で生活する生物のほうが強くなるがな」
モニターの中ではアヤが部屋から居なくなってる。ぶーちゃんは何故か下着が入ったタンスの引き出しを開こうとしてる…っておいぃ!!でも人間の力でなければ開かない。そりゃそうだよね、ぬいぐるみなんだから。
「よ、よし、今お風呂に行ったと思うから、ぼ、ぼ、ぼくも、行ってくる」
そしてモニターは2階のアヤの部屋から廊下へ、そして階段へと移り変っていく。ぬいぐるみだから階段を降りるのも一苦労だったよ。ようやく1階の階段に降りた時にペスパの足は停まったんだ。
「どしたの?」
「んん…なんだろうこの匂い?」
「匂い?」
ああ、そうか。僕はモニターでしかペスパの状況を知らない、つまりペスパが見ているものと聞いている事ならモニターから解るだけだけど、ぶーちゃんは嗅覚もリンクしてるんだっけ。
「ま、まぁ、いいか」
そして最終目的地であるバスルーム手前まで来たんだ。偶然にも隙間が開いてる扉から身体を押し込んで進入するぶーちゃん。見上げて見つけたのは…おめでとうございます。女子高生アヤの着替えシーンにございます。
「うぅ、うぅ、生きてる事を、じ、じ、実感するんだな、い、今」
「ひゃッ!び、びっくりしたー」
てくてくとアヤの足元へ歩いていくぶーちゃん。
「どうしたの?お風呂入りたいの?」
こくりと頷くぶーちゃん。
「おいで」
アヤとぶーちゃんはお風呂へ。
それからぶーちゃんが操作するペスパは、まるで体育座りで講習を聞いてる中学生みたいに、ただただ真面目にアヤという女子高生がシャワーを浴びているシーンを見ていたんだ。アヤは泡を手にとって髪や身体に塗りたくっていく。時々、ぷるんぷるんとアヤのおっぱいが揺れてる。
「ぶーちゃん、正面に移動できる?」
「が、が、頑張ってみる」
そう、幸いにも髪を洗っている最中だから石鹸が目に入らないように目を瞑っていたんだ。だから真正面からアヤのおっぱいだとか下半身の色々が見えてしまったんだよ。
「え、永久保存したよ」
「…」
それからシャワーを浴びて身体の泡を落としていく様子だとか、風呂に浸かってる様子だとか、飽きるほどにそれらを見てデータとして収めてからお風呂の楽しい時間は終わった。いや、まだアヤは風呂に浸かってるままだけど、そろそろペスパは撤収させないといけない。ぶーちゃんは沢山の楽しい思い出(アヤの裸コレクション)をサムネイル表示して名残惜しそうにしてたけども、
「じゃあ、ぶーちゃん隊員、そろそろ撤収を」
という僕の一言で渋々、「う、うん」と答えた。
アヤが気持ちよさそうにお風呂に浸かってるのを横目に、ぶーちゃんが操作するペスパは廊下へとトタトタと出ていった。あとは玄関のほうから出て行くだけなんだけど、ぶーちゃんは何故か玄関には直接行かずに台所や居間の方向へと向かったんだ。
「どしたの?」
「な、なんか、へ、へ、変な匂いがするんだよ」
「どんな匂い?」
「な、なんだろう。ど、動物園とかで、に、匂ってきた、あ、あの、匂い」
「動物園?」
ペスパの視野は淡々と台所や居間の様子を映してる。綺麗に整頓された台所はまるでショールームのソレみたいに生活感がないし、詳しく見たわけじゃないけども、テーブルの上に置いてあった果物すら偽物じゃないかと思ってしまう。静かな部屋には時折外からスズメだとかカラスの鳴き声が響いている、どこにでもあるような秋の夕方。でもどことなく外よりも家の中のほうがひんやりしている気さえする。
「ん?いま、外に何か映ったぞ」
クリさんはまたもやプログラミングの手を止めてモニターの一部を指差した。
その先は居間にある3メートルぐらいある大きな窓ガラスから中庭を映し出した様子があった。クリさんに言われてぶーちゃんも中庭のほうを見ている。これまたどこにでもあるような普通の中庭で、敷地の中をよそ様から見られないようにと塀のそばに並んでいる木々やら、ガーデニングが行き届いた花壇みたいなのがあるんだ。
そういえばさっきからカラスの声がうるさいな。クリさんが「何か見えた」と指差したのはカラスなんだろうか。ペスパをゆっくりと中庭の見える窓ガラスへと近付けさせていく。
綺麗な花やら、道端に生えてる雑草とはちょっと異なるいい感じの草が植えられている中庭は見えてきたんだけども、どう考えても中庭には存在してはならないような色合いの『物体』が転がっている。茶色、緑色、そして『赤色』。この赤色の物体は何?しかも一つじゃあない、数えただけでも両方の指が足らなくなるぐらいに沢山転がってるんだ。
赤い物体、中には赤黒いものもあり、時折ピンクの何かが混じっていて、それでいて動物の毛のようなものも物体の中に見えた。僕は網本と車で街まで行く途中に、野生の動物が車に轢かれて肉片と化しているのを見たことがある。トラックか何かが轢いてしまってて、ぺっちゃんこになってるアレ。まさにアレだった。カラスがその肉片を啄ばんでいる。もし仮に道路で事故死した動物をここに持ってきてるとすれば、まだそれならいいよ。いや、よくないんだけど。でも一番最悪なケースとしては、どこからか生きた動物をここに連れてきて、ここで殺したって事だよ!
「な、な、な、な、な、な、なんだよ、こっこ、これ」
「ぶーちゃん、ここ、滅茶苦茶、ヤバイんじゃ」
僕は背中に嫌な汗を掻いた。
ぶーちゃんもそうだった。逃げなきゃ。逃げなきゃ殺される。なんて思ってたのか、それとも何かの気配を察知したのか、ペスパの視界は突然、自分の周囲360度をサーチしだしたんだ。思わず僕はモニターに映ったものに身体をピクンと反応させてしまった。
台所に立ってニヤニヤと笑っている。アヤが笑っているんだ。
パジャマを着ていたが、急いで着替えたのかボタンは掛け違えてるし、髪は乾かしていないからポタポタと肩を濡らしている。手には台所から持ってきたのか包丁が握られてる。綺麗に研がれた新品みたいな包丁だ。
「ぶーちゃん!逃げて!」
「ひッ!うっひぃッ!」
ぶーちゃんが操作するペスパはアヤの家の中を逃げ回った。居間を飛び出して1階の廊下に出て、それから何を慌てたのか玄関とは逆の方向に進んでいる!「ぶーちゃんそっち違う!」「だ、だ、だって、アヤがそっちに」とか言いながら。そう、アヤはペスパが玄関に逃げ出そうとするのを察知してたんだ。真っ先にそっちの道を塞いだ。
「はぁはぁ!あっはっはっはっ!!」
高揚した顔で大笑いしてるアヤ。相手がもし人間だとしたら狂人と思われてもしょうがない言動なんだ。いや殺人鬼か。やっぱり庭に転がっていた動物の死体はアヤが殺してたのか!!
「待て待て待て〜!」
もう行き場がなくなったぶーちゃんは2階へ上がるしか無かったんだ。ペスパの身体で2階に上がるのはどう考えても人間の足には追いつかれる。それは解ってるんだ。けれども、アヤは何故か追いついて包丁で殺そうとはしなかった。本当に楽しんでいる。逃げ惑う動物を追い掛け回すのを楽しんでいるんだ!彼女は手で階段をバンバン叩いて(まるで駆け足で階段を上っている音を立てるみたいに)ぶーちゃんが操作するペスパを焦らせている。最悪だよ、この変態野郎!
「まずいな」
とクリさん。一方でぶーちゃんは逃げるのに(階段を上るのに)必死で声が出ない。
「どうしよう」と僕。
「まず第一にデブがペスパとの接続が解除できないでいる。ここで無理に解除すると一時的に電脳にダメージを被る事になるだろう。それから第二に、このペスパ、いやリモート操作のドロイドは高かったんだ」
「…第二のは却下で」
「第三に分解されて解析されれば私達がアヤの風呂を覗いていた事がバレる」
「ヤバイじゃん!」
「ペスパが刺し殺されればアヤに分解する時間を与えてしまうぞ。逃げ切らないとまずい。というか2階に上がるのは方向が逆じゃないか?」
「ちょ、ちょっと、あたしが回収に行ってくる!」
「デブはこちらで何とか接続解除を試みる。くれぐれも気をつけろよ、相手は『マジ』で『キチガイ』だ。こういうタイプの人間は行動が予測しにくい。節度あるキチガイなら犯罪心理学のパターン通りに動くんだがな」
僕はペスパが入るぐらいの大きな袋を自分の部屋の中を探し回って見つけ出して、それを持ってアヤの家へと向かったんだ。場所はペスパにGPSがついてるから把握してる。バスで5分ぐらいの場所。それまでぶーちゃんが逃げ切ってもらうのを待つしかないんだ。
クリさんにはその間、僕の電脳にペスパの視野を転送してくれるらしい。
タクシーに連絡してそれを待つ間にもぶーちゃんは逃げ回っている。アヤの部屋の中で見つからないようにとベッドの下に入り込んで隠れているんだ。
「ひゃッひゃッひゃッひゃッ!どこに隠れたのかなぁ?」
アヤの声がする。足音が近付く。目の前にアヤの足が通る。ベランダのほうへ向かって鍵が掛かっている事を確認して、その後、ゆっくりとベッドに近付いてくる。ヤバイ、ぶーちゃん、ベッドの下に隠れるなんてベタすぎ。
「ベッドの下に隠れるなんて、ベタだね〜」
ほら!
『クリさん、何か武器は無いの?その人形』
『武器か…爪がある』
『ぶーちゃん、それだ!爪で引っ掻くんだ!』
『う、うん、や、や、やってみる!』
アヤはベッドに近付いてくる。あと少しで爪の攻撃の射程距離じゃないか。一撃だよ、ぶーちゃん、一撃で確実なダメージを与えるんだ、足に!!
って、あれ?もう射程内に入ってるよ!なんで攻撃しないんだよ!
タイミングはずれてたけど、確実に射程に入った時に少し躊躇いの感覚が0.5秒ぐらい開いた後で、鋭い爪が空間を切り裂いた。な、なに、その爪攻撃…。青い閃光が空気中に線となって残った。次の瞬間、アヤの足がぱっくりと裂けて血が吹き出た。
『爪は超伝導ナイフと同じ構造だ。対応した装甲でなければ大抵のものは切断する』
『危ないじゃん!』
『まぁ軍から流れてきた品だからな』
アヤは一瞬何が起きたのか解らなかったみたいだ。あまりに鋭利な刃物だと切られた事すら気付かないとはよく言うんだけど、それでも体重を支えている部分を切られているのだから身体がぐらついてくるのは仕方ない。そこでアヤは自らに何が起きたのか理解した。屈んで凄まじい形相でぶーちゃんのほうを睨む。
「てめぇぇぇぇ!!」
さっきまでのあの声はどこへやらだよ!凄まじくドスの効いた声で包丁をべスパのほうへと振り回してくる。映像には包丁が目の前の空間を切っているのが移っている。本当に、後2センチぐらいのところをビュンビュンと旋回してくる。
タクシーがようやく到着した。僕が乗り込んで急いでアヤの住所へと向かうように言う間にも、ぶーちゃんの操作するペスパはベッドの下から這うように出て、アヤの部屋から飛び出した。
「待てこら!」
アヤのキチガイじみた声が響く。
彼女は足を怪我してる。引き摺って歩くしか出来ないみたいだ。チャンスだ!
「ぶっ殺してやる!ぶっ殺してやるぞぉぉ!目玉をくり貫いて、皮を生きたまま剥がして、腸をえぐりだしてやる!悲鳴すらあげれず、最後はガタガタと身体を震わせて死ぬんだ。他の奴等と同じだ!死ね!死ねぇ!」
アヤの叫ぶような声が響くなか、階段を一つ一つ、転げ落ちないように降りていく。2階の廊下から引き摺るような音が聞こえてくる。普通なら痛みで動けないはずなのに、それでも動けるのは執念なのか、邪念なのか、それとも…神経回路を切断してるのか…。そのどれもありだと僕は思った。今の彼女ならそれはどれも当てはまる。
タクシーはアヤの家に到着した。
あと少しだ。ペスパの視界にも玄関が見えている。僕の耳にもトタトタとペスパが歩いてくる音が聞こえる。ぶーちゃん、もうすぐ救出するからね!
「ははははーっ!カギが掛かってるんだよ、バーカ!」
ゆっくりと階段を下りながらアヤが叫んでいる。でも残念でした、電子キーで安心したよ。僕はセキュリティゲートにクリさんの家のハッキングAIを2、3体突っ込んで開錠した。
「え?ちょっ」
開くはずの無い家の鍵が開いたからか、アヤが驚いて見ている。ドアを開けるとぶーちゃんが操作するペスパが僕の足元をトコトコと通り過ぎて、背後に隠れた。
何故か鍵が開いて、突然現れた訪問者の前でサッと包丁を背中に隠す。でも僕は見てたけどね。そしてこのアヤという女は驚いたことに、さっきまで狂気の表情だったのにさ、今は全然普通の顔になっていやがるんだ。「あら、どちら様で?」とか言うんだよ。ゾッとしたね。その普通の顔で友達の前に出た時にも、裏では動物を殺してたって事?
けれども、僕がその疑問を脳裏に浮かべてると同時に、アヤも疑問系で聞いてきた。
「そのペスパ、あなたのなの?」
顔は至って普通だった。僕は彼女が包丁を背中に隠している事を知ってる。けれども、例えそれを知らなかったとしても、この至って普通な表情に疑問を持たない人はいるのかな。違和感があった。言葉では説明できないぐらいの違和感。目の前には包丁の先っぽがチラチラと背中から覗いている、足から大量に出血してる女子高生が、普通の顔で立ってるんだ。
「ねぇ、そのペスパ。あなたのなのね」
僕はその言葉を聞いたときに、いったい自分は何をしてるんだろうと思ったよ、本当に。攻撃を仕掛けてくると悟って、今さらにも電脳に格闘術ソフトをインストールし始めてるんだからさ。
アヤは確実にその包丁で攻撃してくる。効き足をこちらに向けたから。片足を怪我している事は計算外かも知れないけども、それでも効き足をこちらに向けてる事は、ナイフとかを使った白兵戦術のソフトではお決まり事なんだよ。そしてぶーちゃんの超伝導ナイフと同じ構造の爪があったとしても、ジャンプして彼女の包丁を受け止める事なんて出来ない。
格闘術ソフト、インストール状況…60%、70%…。
アヤが効き足を前に出した!ヤバイ!死ぬ瞬間には走馬灯が見えるというけど、僕の場合はアヤが攻撃を仕掛けてくる様子がスローモーションで見えたよ!そして神経を集中してるのはソフトウェアのインストール状況だ、現在80%。まさか人生の終わり頃に格闘ソフトのインストール状況が命を左右するなんて誰が思うだろう!さっきまで背中に隠してた包丁が飛び出てくる。体重を包丁にかけるように、切るというよりも突くような体勢で。90%…。ダメだ、間に合わない!!
その瞬間。
僕の背後から誰かがスルッと現れた。僕と同じぐらいの背の高さだったから女性、クリさんかと思ったんだ。だけど、黒髪の黒服っていう葬式にでも行くような格好を普段から愛用してるのは僕の知り合いには…。
「ユキッ!」
背後から現れたのはユキだった。僕をどかしてアヤの攻撃を身体で受け止めてた。これは絶対にお腹辺りに包丁が突き刺さっている位置、と思ったら、包丁は彼女のお腹の横に反れてる。でも、わき腹を切り裂いている…その証拠に血がポタポタと垂れてるんだ。
ユキが苦痛で顔をゆがめてると思ってた。顔は真っ赤だったから。でもそれは包丁の攻撃を受けた事によるものじゃないみたいだった。アヤが叫んだんだ、痛みで。
「ああああああ!!」
ザックリと手が裂けてた。
包丁の刃は何故かユキの身体を傷付けずに、アヤの掌を裂いたんだ。
「ゆ、ユキ、どうしてここに?」
「嫌な予感がしたから来てみた」
ユキは顔を真っ赤にして辛そうだ。でも身体には傷一つないから別の原因…?
さっきまで叫んでたアヤが叫ぶのを止めたと思ったら、まだ無事だった手のほうで包丁をつかんで、今度はユキのほうに切り裂こうと攻撃を仕掛けてきたんだ。でも、僕の格闘術ソフトはインストール完了してる。僕はその攻撃を足蹴りで払いのけた。包丁は天井に突き刺さった。
「なんでてめぇがここに来るんだよ、クソがッ!」
もう何も出来なくなったアヤがユキに向かって言う。やっぱりアヤはクラスメートだったんだ。でもさっきユキの部屋に居た時は全然そんな態度じゃなかったのに、この変わり様は一体…。
「ユキの友達?」
「いえ。ただのクラスメート。『この人』と最初に話したのは、さっきこの人が私の部屋に来た時よ。風邪引いて休んでた私の為に学校の案内を届けてくれたの」
それはいい人じゃん…。
「でも、一目見て嫌いになったわ。私、性格が悪いから、同じ様に性格が悪い奴は見ただけで解るのよね。でもそれ以上に悪い事をしてる人は近付いただけで解るけどね。例えば…」
そう言ってユキはアヤから視線をそらすと、家の中をじっと見つめて、
「何かを殺してる人とか」
そう、ユキが見てる先にあるんだ。沢山の動物の死体が。
「へぇ。それでプロテクターでも装備して家までご足労してくださったんですか」
とアヤが吐き捨てるように言う。プロテクター?そうか。ユキがわき腹を攻撃されても傷一つ負わなかったのはちゃんと準備してたからなのか。でもそれを聞いてからユキは、片手を挙げて(さっき包丁で攻撃されたところを指差して)
「この財布の事?」と言ったんだ。
プロテクターなんて無い。
「な、何それ」とアヤも驚いてる。
「どうしてあなたが包丁を振りかざしても、私を殺せなかったか教えてあげましょうか」
ユキはワザとらしく腕を組んで、見下すように地面に這いつくばってるアヤに向かって言う。
「あなたは『徳』が無いからよ。他人を見下したり、陰口を叩いたり、素敵なお嬢様を演じたり、自分を飾っていつも偽っている人は徳がないのよ。徳がない人は徳がある人を傷つける事が出来ないのよ」
と、徳ぅ?ユキに徳があったなんて初耳…。
「私には友達がいる。ここにいる私の友達を守るためにやってきた私を神様は守ってくださってるの。傷つけて喜んでるあなたよりも、守ってる私のほうが徳があるのよ。そういう人を神様は守ってくださるの」
か、神様って。邪神とか破壊神とかかな…。
「行きましょ。私、熱があるのよ」
「う、うん」
僕とユキは、ペスパを持ってその場を立ち去ろうとした。
それで済むのかな、という疑問はあった。背後からアヤが襲い掛かって来るんじゃないかって思ったから、また振り向いたんだ。アヤが倒れてた玄関のほうを。
案の定、襲いかかろうとしてた。立ち上がってこっちに向かってこようとしてたんだ。でも、その上から天井に先程刺さっていた包丁が落ちてきて…。アヤの足に突き刺さった。ペスパが傷付けてないほうの足に。

翌日。
ニュース番組にはアヤの家が映ってたよ。
「…の住居の冷蔵庫からバラバラの死体。家に住んでいた男性とその妻と断定、警察は同じく家に住む長女を事情聴取…庭に大量の動物の死骸」