1 かたつむりの会 3

「服を買いに行く為の服がないとね」
と僕は妻が買ってきた彼女向けの服やら下着やらをテーブルの上に置いた。
元々男性だった事を考慮してか、スカートだとかは買っていないようだ。
まじまじと見たわけではないが、ジーパンに、それから黒のランニング、そしてキャミソールが見える。下着は別の袋に入っている。
彼女は名前を「結城聡(さとる)」と言った。
ただしそれは男の時の名前で、この病にかかった後に社会的な生活を送る為に改名しなければならない。他にも色々と制度はあるが、名前というのは重要じゃないか。
彼女はしぶしぶと、改名した後の名前を口にした。
「結城琴音(ことね)」これが彼女の今の名前だ。
普通、名前というのは余程の事情が無い限りは親が決めるものだ。それも子供が生まれる前に。だから今の結城琴音という名前はひょっとしたら親が決めたものではないのかも知れないし、そうなのかも知れない。ただ、名前の由来を自分が聞いてしまおうかと話を振ると口をつぐんで言おうとしない。余程の事情が裏にはあるのだろう。
「これを…着るんですか?」
ジーパンのほうには目を向けていない。彼女が取ったのはキャミソールのほうだ。
「好みがあるのかどうか、聞いたじゃないか」
「でも、これ…」
「じゃあ何が着たい?」
「…いいです。これで」
「そうか。あっちに着替えるところ…いや、トイレだけどね。そこで着替えてきて」
「はい」
しばらくして。
「あの、すいません、これも着るんですか?」
トイレから声。
「これって?」
僕はトイレの近くに、彼女が扉を開けてしまっても見てしまわないようにと、側の壁の背中をつけてから聞く。元は男性だから胸なんて見られても恥ずかしくは無いだろうけど、逆に見ているこっちは恥ずかしいからね。
「ブラジャー…」
「君の知ってる女性ってのはみんなノーブラなのか?」
「いえ…」
「じゃあ、覚悟してそれをつけるんだ。そうやって一つ一つクリアしていかないと、これからさらにキツくなるぞ。僕は女になったわけじゃないから君の気持ちはあまりわからないけど、君の先輩達はそうやって最初はブツブツ文句を言いながらも、慣れていったよ。そして世間の片隅でひっそりと暮らしてるよ。みんなね」
トイレからため息が聞こえる。
その後、トイレの扉が少し開いて、中から彼女が部屋を見渡す。もちろん僕は壁に背中を合わせてるので彼女は自分が居ない事に気付いて探すわけだが、
「すいません、ブラジャーのつけ方わからないんですが」
やれやれ…これもよくある事だ。いや、よくある事か?
普通は着替えの最中に男が入ってこればキャーキャー言うのがその年齢に適した女の子なわけだが、目の前の元男である彼女にはそんな恥じらいなどもあるわけでもなく、
「ここにホックがあるだろう。この鉄の。これに、もう片方の枠のついてる奴を引っ掛ける」
胸も隠さずに僕の説明を聞いている。
服のサイズは彼女の身長からするとSサイズになるらしいが、女房曰く、Sサイズの服に合わせる様にブラを買ってくれたのだが、どうやら見積もりは完全に外れたようだ。思ったよりも胸が大きい。
ふくよかな胸にブラをあてがっている。
普通の女性なら、ここでブラのサイズがあっていない事に気づくだろうが、さすがは以前まで男だった女性だ。明らかに小さいブラでも「そういうもんなんだろう」と気にもせずに着用しようとしている。そして、テレビで女性がブラをつけているシーンでも見てたのだろう。彼女は背中でホックを止めるというのをやってみせようとしてる。それは…初心者には難しいんじゃないか?
「最初はホックを止めた後でつけるといい」
と、僕は親切にも(もちろん下心なしで)彼女のブラのホックを背中で止めてやる。
やれやれだ。
こんなシーンを嫁さんに見られたら包丁でも持って追い掛け回されそうだ。仮にもそうなったその時は、しばらく走らせて疲れさせた後で彼女がXX病の患者である事を説明しなきゃいけない。
服を着終わった結城琴音は、今時の普段着の高校生という感じになった。
洗面台の鏡を見てから顔を伏せる琴音。
「なかなか似合うじゃないか」
「これからどうするんです?」
「あとは仕事だな」