独りで生きていく力『孤独力』

会社では上から下からひっきりなしに相手しなければならず、疲れて家に帰れば奥さんの愚痴、子供のわがまま、休みの日にもプライベートな時間を作る事も出来ず、かといって一人で出掛ける事も出来ず、どこへ行っても息苦しくて、気がつけば自殺する場所を探している事はないか?
空を見上げて自由に飛んでいる鳥を見つけて、「自分も翼があれば、あの鳥のように自由に空を飛びたい。今のこの息苦しい世界から飛び立ちたい」と馬鹿みたいな事を考えた事はないか?
自由に生きていくだけの金も地位もあるのに、何故か自由になれない。
それは『孤独力』が不足しているからである。
『孤独力』とは何にも縛られず自由に生きていくという思想やその手法を測るものである。
人には集団で行動するという欲求が備わっている。それは食欲や性欲などと同じで生きていく為に必要なものだ。しかし、過度な欲求は破滅を導く。食べ過ぎれば成人病になるし、セックスをしまくれば性病になったり、男女の関係にヒビが入ったり、子供が沢山出来てそれこそ人生の終焉を迎える。集団欲がもたらす破滅は上に書いたような逃げ場の無い息苦しさをもたらす事である。それはストレスとなり次第に自らの命を絶つ理由となる。
どこかの偉い人が言った。
「本当の自由は心の中にある」
金や権力や人間関係などがどんなに優れていようとも、心の中が束縛されていれば真の自由を得る事は出来ない。この世界は神の力によって束縛されているのだ。神は欲求という名の鎖で人をコントロールしている。それは人や動物に生きていく理由を与える一方で、自由に考える思考を奪う。人は自由に考える事でこの地球上で神のごとき力を得てきた。人は欲求に操られるのではなく、欲求をコントロールしなければならない。それが人と動物を分ける境目である。
前置きはこれぐらいにして孤独力を高める為にはどうすればいいのか、今回はその修行方法を書いていこうと思う。

まず考え方を変えろ

自由に生きていくためにはまず考え方を変えなければならない。
そうしなければ独りで居る時に寂しいと感じる事になる。寂しいと感じる事は悪い事ではないが、食べる事やセックスをする事と同じく、寂しいと感じすぎるのも問題である。言わば依存症と思えばいい。寂しいと感じるのは生きていく為に最低限必要な程度でいいのだ。
考え方を変えるのは簡単ではない。まず人間の欲求について深く考えていく。「自分は生かされているのか?」それとも「生きているのか?」答えは後者である。だが、それが本当にそうなのかを普段の生活から感じ取って欲しい。時には自分自身だけではなく、他の人や他の動物を観察する。
そして自身の感情や欲求をコンピュータのように冷静に、客観的に分析できるようになれば悟りは開かれたと言えよう。

周囲の視線に慣れろ

次なるステップとして街へ出て周囲の視線が気にならないよう訓練しよう。
ちなみに、孤独力とは家の中に引きこもる力ではない。集団の中においても個を維持していく力である。孤独力の低い人間が家の外に出ようものなら、最初のうちはコンビニで「箸は?」と聞かれて「ああ、あうぁ、ぁあ」と人間とは思えない唸り声を上げて醜態を曝け出す事になるだろう。
服装は自分の好みで。スラっと言ったけど『自分の好み』である。勘違いしないように。雑誌をみて「最近はこういうのが流行ってるのかぁ、これを来てれば目立たないよね」と雑誌を真似しないように。
周囲の目が気にならないようにする為の訓練であるのだから、周囲の目に停まらないような服装を選んでいてはダメである。なにより自分の好きな服を着て、誰にも文句を言われず、誰の視線も気にならないようになれば、それは自由を一つ手に入れた事になる。

一人でお店に入れ

これは何度も繰り返す事で養われる。
店によってレベルがあるが、例えば飲食店などは店で過ごす時間が長いのでレベルは高い。最初はコンビニ、それから順にランクを上げて、本屋、ブティックに雑貨屋、スーパーと規模を大きくする。最後は飲食店だが、小さいカウンター付きの店から順にレベルを上げていき、喫茶店、テーブルしかない店(ファミレス等)、中華料理店(回転テーブル席)、最後は焼肉屋
本来、家族や恋人、仲間同士で来る場所で一人で着ているのだから視線は集中しまくる。大抵の人は「ほぉ〜一人でこんな店に来れるのか、凄いな」と考える。中には「うはwww寂しいwww」と考える輩もいる。その辛さに耐えてはならない。「自分は彼らよりも自由だ。彼らは一人になる事が寂しく、周囲の視線が気になる弱い人間だ」と優越感に浸るようにしろ。
「一人でいるなんて信じられない」と考える人間は得られぬ自由を妬んでいるのだ。妬みを持った人間ほど醜いものはない。

時には適度に人と話をしろ

常に独りでいると人を恐れるようになり、結果的に集団の中で個を維持する能力に陰りが出てしまう。適度に人と話をする事でそれを防ぐ事が出来、また、寂しさを紛らわす事も出来る。そこで初めて欲求を自らでコントロールした事に気付くだろう。
常に誰かが傍にいる人間(孤独力が欠如している人間)は同じ価値観を共有する人間と常に話をしているので、逆に別の価値観を持つ人間に抵抗を覚えてしまう。孤独力を養うと『自分』の個を維持する能力が養われるので、価値観が異なっていても気にならなくなる。いわゆる『大人』という奴だ。
話さない事が孤独力ではない。必要とあれば誰とでも話せるのが孤独力である。
最初は家族、それから友達、そしてネットなどのお互いの顔が見えない場所で『失礼の無いように』話す事を心がける。それが出来るようになればバーなどで常連さんと話す事なども出来るようになる。ただし、常に考えておかなければならないのは『適度に』話す事である。話していなければ落ち着かないと思うのは、まだ孤独力が養われていないからである。

常に考えろ。周囲に流されるな

「自分は学者でもなければ賢者でもない。ただの一般市民だ」なんて考えていると思考は流されて個を維持出来なくなる。個を維持出来なくなると後は流されるだけ。周囲の目や自分の生き方が気になるようになり、結果、自由の2文字が消え去ってしまう事になる。
「我思う、ゆえに我在り」
人は考える事で自由を手にし、文明を築き、地球上で神となった。考える事を止めてはならない。趣味を持て。常に何かを思え。今日は何を食べようか、今日は何をオカズにオナニーしようか、欲求は一体何のためにある?なんで自分は生きているんだ?なんで自分は生まれてきた?
そしてふと車を公園の駐車場へ停めて、音楽を消して窓を開けてみる。外から涼しい秋の風が入る。まだ青い紅葉を見て、この紅葉が赤く散る頃はさぞ綺麗だろうなと思う。聞こえてくるのは夏の終わりを感じさせる鈴虫の声。「一人で公園に来なかったら、この鈴虫の声も耳に入らなかっただろうし、この紅葉も視界に入らなかった」などと考えてみる。

人の温もりを知れ

孤独力の低い人間が逃げ文句として喜んで使う言葉がある。
「人は一人で生きていく事は出来ない」
常に集団に収まり、流されて個を失っている人間には『人間関係』などというものは自らを束縛する鎖以外の何者でもなくなっている。人は良い部分よりも悪い部分が目立つように出来ている。集団欲という名の鎖で自らを縛りあげて、苦しみもがく中で人の悪い部分だけが目に見えて、苛立ち、怒り、恐怖して、それでもそこから離れる事が出来ず、自分が優越感に浸る事が出来るとすれば『独り者』の連中に「お前は良いよな、一人で、気が楽で」と自らが大人であるかのように振舞う事のみ。いずれは精神を病み、人を憎み、人を恐れ、そんな自分自身を嫌う。
「人は一人で生きていく事は出来ない」
彼らがそんな辛い心境においても、この言葉で何とか自分を保とうとする。自分の正当性を証明しようとする。「今逃げてしまえば独りになる。それは辛い」そんな恐怖からこの言葉を思う。そんな考えの奴にこの言葉の一体何が解る?一人で生きていく事がどういう事なのか、知りもしない奴がこの言葉の何が解るというのだ。この言葉は、他人の存在の大切さを知る事で始めて意味を成す。
常日頃から食べて食べて食べまくってる奴が、ジャングルの奥地で乗っていた飛行機が墜落して、自給自足の生活を余儀なくされた時に食べていく事という大切さに気付く事に似ている。
大切なものは失って気付くのだ。

最後に

孤独力が強くなれば独りで生きていく事が楽しくなり、自由に考える事ができ、人の温かさを知る事が出来るようになる。なにより、人を強くする。
これから孤独力を高めんとする者達よ。まずは肯定から入れ。
独りで生きる事は悪い事じゃない。